Kのメモ Apr 7,2011 [店雑記・Kのメモ]
額田王-線上のゲシュタルト1
(図6)
額田王-線上の歌1・2・3を記し線を描きました(図6)が
三本(N・K・T)の線には共通するものがあります。
直線(方向)とO点(場所)です。O点は明日香、酒船石遺跡を示します。
大和の都に居ます額田王と吉野の宮に行幸された弓削皇子との問答歌から、
弓削皇子が額田王に贈った歌に
古に 恋ふる鳥かも 弓絃葉の 御井の上より 鳴き渡り行く(2-111)があります。
これを素直に読み解くと大意では
天武天皇御在世中の昔を恋い慕う鳥であろうか。ゆづる葉の井戸の上を鳴き渡っていくのは?と解するようです。
ユヅリハは常緑の高木。新葉が出てから古葉が落ちるので譲り葉の名があります。
このようなことから世代の順調な交代、永続に通じるものとされ昔は正月の飾りによく用いられました。(注1)
弓絃葉の御井はその木のほとりにある井戸とされています。
弓絃葉の御井を下記のように描いてみました。
(写1)
酒船石遺跡は
元、岡の酒船石があり、近年の発掘調査からその眼下に
祭祀が行われたと推測される湧水施設がみつかりました。(写-1)
この施設は斉明朝に造営され、天武朝に大改装されたと推測されています。
施設は石組みの井戸から湧き出る水を船形石槽、亀形石槽を経て石敷された空間を流れ行きます。(図-6)
調査報告書では井戸、船形石槽、亀形石槽の関係を年代を経て推測していますが、
改装以前のⅠ期想定で疑問(井戸と石槽の関係)も記しています。
発掘調査で遺物として船形石槽から多くのヘチマの種がみつかっています。
私はそのヘチマの種より、瓢型(ひさごがた)をイメージし、改装で占星台としたのではないか、と推測しました。
(図7)
(図8)
そして改装以前の疑問点と瓢型のイメージから
船形石槽、亀形石槽でなく、出水の酒船石(1)が設置されていたのではと推測したのです。(図7)(図8)
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『日本書紀』斉明天皇二年の条に記された
「宮の東の山に石を累ねて垣とす。、、」が発掘調査より酒船石のある造成された丘であることがわかりました。
この前文に「ふたつの槻の樹のほとりに、兩槻宮を起つ」と記されています。
(図9)
私は「槻」の字解をもとに、
出水の酒船石の溝形が直弓を対称にデザインし、その間を水が流れているイメージをもちました。(図9)
弓絃葉の御井は改装前の出水の酒船石が設置された湧水施設のように思えてくるのです。
またや、吉野宮に弓絃葉の御井があり、それに習って湧水施設がつくられたのかもしれません。
古に 恋ふらむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし わが念へる如(2-112)
額田王が大和の都より弓削皇子に奉対した歌です。
「テッペンカケタカ」と昼夜をとわず鳴く霍公鳥(ホトトギス )は托卵性の鳥の一種です。
自分では巣をつくらず、他の鳥の巣に自分の卵を産み込み抱卵や有雛も巣の親にまかせます。
後、松蘿(しょうら・松のコケ)のついた松の枝が遣わされ、額田王が奉対した歌です。
み吉野の 玉松が枝は 愛しきかも 君が御言を 持ちて通はく(2-113)
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(写2)
T線は浦嶋子伝説の丹後・筒川と宮滝・吉野宮から仰ぐ青根ヶ峰(写2)、熊野の地を結ぶ線です。
時の流れの中に生と死を意識した線のように思われます。
(1)出水の酒船石 1916年明日香村ケチンダから見つかった石造物、現、京都市南禅寺の碧雲荘庭園に設置。
(注1)『植物の世界』週刊朝日百科 朝日新聞社 19969より
(図6)『電子国土』に加筆
(図7)(図8)『酒船石遺跡発掘調査報告書』明日香村2006より加筆
(図9)『あすかの石造物』 図録35冊 飛鳥資料館 2001より加筆
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