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Kのメモ Apr 14,2011 [店雑記・Kのメモ]


額田王-線上のゲシュタルト3

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(1-8)

百済遠征のおり、斉明朝あげて筑紫に遷都します。
その行路の途中、伊予の熟田津(にきたつ)に寄港し、石湯(いわゆ)行宮に行幸したとされ、
再び熟田津から出航するときの歌とされています。

この歌も多くの学者さんが推理、論考を重ね遮蔽された感じは否めませんが
そのすき間からの一光を一本のK線上に求めます。

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(図12)

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(図13)

K線は当初、O点(酒船石遺跡)とK点(亀石)を結び描いた線ですが、
その線を延長すると松山の石湯行宮比定地(I)の久米官衛遺跡群(図12・13)を通過し


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(図14)

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(図15)
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(写1)

筑紫の朝倉橘広庭宮比定地(A)(写1)杷木志波地区(図14・15)に至ります。

夏恵子が「不思議だね」といいますが、
決して不思議ではなく、飛鳥人の英知を持ってすれば方位計測など簡単なものだったと考えます。

この線のもとはO点(酒船石遺跡)にあります。
謎の石造物、酒船石のあるところ、湧水施設のあるところ、
東の山に石を積んで垣としたところです。

このあたりをベースにこの歌をイメージすれば楽しいかもしれません。

額田王はO点のこれらのものは宮において熟知しており、また生存中、既存していたことも事実です。

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(写2)

月夜の夜、斉明天皇も交え祭祀空間に置かれた酒船石に水を流し小舟を浮かべ
遠征の吉凶を占ったかもしれません。

熟田津で船に乗って出発しようと待っていると、月も出、潮もよいぐあいになった。さあ漕ぎ出そう。(1-8大意)


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(図16)

補足的ですが
飛鳥京から難波宮、筑紫・岩瀬行宮から橘広庭までの距離、方位もほぼ同じで、
出発地(飛鳥京)から到達地(橘広庭宮)までのコースが占われたのでは、とイメージが増します。

朝倉宮の地の決定はK線が元となったと推測します。




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(図12・13・14・15・16) 『電子国土ポータル』に加筆
(写1) 『温故』 甘木歴史資料館だより第24号 1996より加筆
(写2)酒船石遺跡 酒船石 西から底部を撮る
(1-8大意) 『万葉集』日本古典文学大系 岩波書店 1957

『飛鳥迷宮』 高田和広 2009 「二本の線」より抜粋加筆 



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