Kのメモ Apr 29,2011 [店雑記・Kのメモ]
額田王-線上のゲシュタルト8
線上の挽歌
天智天皇の御陵より離れるときの挽歌
やすみしし わが大君の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に
夜はも 夜のことごと 晝はも日のことごと 哭のみを 泣きつつ在りてや
百磯城の 大宮人は 去き別れなむ(2-155)
(大意)
わが大君の恐れ多い御陵にお仕えしている山科の鏡の山に、
夜は毎夜、夜をこめて、昼は毎日、日もすがら泣いてばかりいたが、
今はもう大宮人は別れ去ってしまうのであろうか。
天智天皇崩御の挽歌ですが、
先にも記したように垂線の延長は宇治の地を経て、御陵に至ります。
(図1)
詠われた時代について、
その中で直木孝次郎さんは『額田王』
(注1)
にて、
山科陵を基準して藤原宮が営まれたとはとうてい考えられないから、
山科陵の造営は持統八年以降のことで、文武三年にはじまると考えるのが正解であろう。と
御陵造営の年代を
しかし、どうしてとうてい考えられないことでしょうか。
夏恵子も地上を覗き、目をくりくりさせながら興味深そうです。
線上に額田王の挽歌が位置すること以外に兎道宮子の歌が位置することは
藤原宮が造営される以前より、この垂線は意識されていたと思われるのです。
『額田王』では
兎道宮子の歌を斉明時代の作歌であろう、と推測されており、
その推理にたてば斉明時代にはこの垂線、宮の中軸線は認識されていたことになります。
藤原宮の造営後、宮の中軸線として認識されたとするのであれば
兎道乃宮子の歌は
線上には見えてきません。
藤原宮の造営前に藤原宮の中軸線とされる垂線はすでに認識されており、
その後に藤原宮が造営されたと推察すると、山科陵、
挽歌の年代の誤解もとけそうです。
天智天皇崩御のときの挽歌
かからむの懷知りせば大御船泊てし泊りに標結はましを(2-151)
(大意)
こうなるだろうと前から分かっているのだったら、天皇のお乗りになっていた舟の泊まった港にシメを結って、
大御舟をとどめて、天皇が天路へ旅立たれないようにするのだったのに。
天皇の乗られた舟の港はどこだったのでしょうか。
垂線をF点より南に延長すると、天武持統陵をとおることは記しましたが、
天ノ川を経て、はるか熊野灘へと至ります。
(図2)
『日本書紀』神代上に記されている大国主神と共に国づくりをし、
その後、
少名彦名命(スクナヒコナノミコト)が
常世の国へ
旅立つ、
熊野の御崎
です。
「やっぱり額田王はこの線を描いていたよね」と夏恵子はいいます。
「線上の挽歌かもね」
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(図1)『電子国土ポータル』に加筆
(図2)
(注1)『額田王』 「五 天智天皇陵の造営」 直木孝次郎 吉川弘文館 2007
(2-151)(2-155)
(大意)
『万葉集 1』 日本古典文学大系 岩波書店 1957 より
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