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Kのメモ Jun 30,2011 [店雑記・Kのメモ]


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(図1)

郷土の商い


大和五條の商いは道の集まるところとして自然的に市が生まれたようです。

その原形は二見、新町、須恵、五條の町並や道の成り立ちから見えてきます。

先にも記しましたが、保存地区として指定されている五條新町筋も
二見や須恵、五條の市(いち)の発展から、造営されたものであり、
商屋の町並の残存から、一地域として取り上げられています。

新町筋以上に栄えていた五條村は
元禄十六年(1703)赤穂浪士吉良邸討ち入りの翌年(1704)、
大火により町場のほとんどが焼失したとあり、
五條の中邸もその後に築かれた建物とされています。

明治元年(1800)の五條の町の商い職表(表1)をみると
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(表1)

江戸末期まで商い職数順は五條村、新町村、須恵村と推測します。

また、7.古手、古鉄、古道具商が目立って多く、次いで八百屋や荒物屋、
次に6.質屋の数が多く、五條の町が非生産的な消費の町であったことを示し記しています(注1)。

明治、大正、昭和と時の経過のなかでも、主だった生産的産業は生まれず、
桐下駄や割り箸なども一時の流れのなかで衰退していきます。

地域としてものを生み出すエネルギーは過去からの堆積した
文化や風土がその地域の環境を育み、生み出されていきますが、
時代の流れのなかで交通の便が地域の発展の形態に変化をきたします。

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(図2)江戸時代の街道

構想された五新鉄道の中止、私鉄線導入の中止などにより
五條の町は交通の発達、発展の核域をうしないます。

そして
車社会の発展により、消費の核域はさらに移動し、人道のクロス拠点として栄えた
町は沈滞していきます。


現在において繁栄の基盤を継続できなかったのは
古い風土からの脱却が出来なく、

御上(おかみ)主義に頼った甘い風土が生み出した内向き社会の
延長かもしれません。

それは戦後復興、昭和高度成長期の土建、土木業の地域発展からも
一見できます。

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以前、他地方から来られた一軒の古本屋さんが町にありました。
一時、郷土に帰り住んだ時、古本屋さんをときどき覗きにいきました。

ご主人は店でフルートを奏でており、
「いつも楽しそうですね」と尋ねると
「まーね、でもこの町の人たち本を読まないのかな、マンガしか売れない」といって
不思議そうにしていました。

その後、フルートの音も耳にしなくなりました。

.............................................

町の議員さんが
「赤字の博物館をなぜ続けるのか」といったと聞き、
私は小さな一点の光も見えない長いトンネルをイメージしてしまいました。


質屋の主人の奥にある「これも賣物」という札をみつけ、
クスッと笑いがこみあげてくるのです(図1)。

......................................

(図1)(図2)(表1)(注1) 『五條の歴史と文化』 市立五條博物館 1996 より加筆












タグ:大和五條
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