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Kのメモ NOV 17,2011 [店雑記・Kのメモ]


lion
退院してから、部屋の整理の続きをしています。
以前に三階の書籍をすべて二階に降ろし、必要な本は書架に移しましたが
いらない本を再度分別しています。


『NATIONAL GROGRAPHIC ナショナルジオグラフィック(参1)』の一冊に
「アジア最後のライオン」の記事がありました。

ページをめくり、
先日記した「獅噛(しがみ)」の記事の写真がアフリカライオンであったこと、
昔はライオンはもっと広域に生息していて、
アフリカライオンから枝分かれした亜種のインドライオンが
ヨーロッパから中東、アジアに生息していたことを知ります。(図1)

現在は頭数も減少し絶滅からの保護につとめているようです。

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(図1)

そのインドライオンは
たてがみが短く、お腹に縦ジワがあるのが特徴のようです(写1)

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(写1)

もし、渡来人のライオンのイメージが古代飛鳥に伝わったとしたら、
このインドライオンだったのでしょうか。

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先日あらためて「マラ石」を撮りに行った時、あらゆる角度からカメラにおさめましたが、
湧き出るイメージの参考にと、
眼に感じる痕跡を数枚おさめました。

その一枚に線のような痕跡を感じ、おさめたものがあります。(写2)

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(写2)


夏恵子に
またはじまった。今度はマラ石のゲシュタルトだね」と皮肉をいわれます。


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「マラ石」について過去の推察や考察を調べてみることにしました。


「マラ石」は古代飛鳥、謎の石造物「立石」のひとつで、明日香村の祝戸(いわいど)という地域にあります。


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(図2)

もともとは南手にある地蔵さんの手前北1mほどの処にあったことが記されており、(注1)(図2)(写3)

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(写3)

坂田寺の遺構発掘より奈良時代の伽藍(注1)門前に位置するところにあります。(図2)

金堂は黄金矩形に近似します。
金堂が回廊の中心ではなく偏心しているのが特徴ですが
回廊を黄金比で分割すると金堂の偏心位置と並びます。(二点鎖線)

既説の伽藍方式にとらわれずイメージすると
飛鳥寺や川原寺の伽藍空間にも多くの黄金矩形ガ潜んでおり、正方形を内包します。


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どうして寺の門前に「マラ石」があるのでしょうか?。


「マラ石」の横に設置されている説明板には「マラ石・Maraishi Stone」とタイトルが記され、
上部に説明が記されています。(写4)

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(写4)

名称は元国立博物館館長の石田茂作さんが
昭和11年(1936年)の著書『飛鳥時代寺院跡の研究(参2)』で
「マラ石」と記したことが『あすかの石造物(参3)』で記されています。

『飛鳥時代寺院跡の研究』の「坂田寺」の項には石についての考察はなく、
お地蔵さんやわらによ(藁にお)、「まら石」らの点在から、坂田寺の門址の名残りでは、とし

お地蔵さんや「マラ石」の写真、概略図が掲載されています。(図3)(写5)

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(図3)
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(写5)


宝暦元年(1751年)
「一立石 此石鳥居の柱のことき物也。顕はるる処四尺はかり、土に入処不知といふ。
さはかりの事もありましきなり。此石傾けば作毛不熟すといひ、これより下つ村よりこれを頼みて起したる事近年なり」と
『古跡略考(参4)』に記されているとあります。

嘉永元年(1848年)
「陽石、祝戸村の道の傍にあり、その形あたかも陽根に似たるを似て号く、大石なり」と
『西国三十三所名所図会(参5)』にも記されているようです。

(1979年)
松本清張さんは『ペルセポリスから飛鳥へ(参6)』で飛鳥の石造物にふれ、
「須弥山石(写a) 」の推測のなかで
石の全体の形がペニスのかたちに似ているとし、
「マラ石」や「猿石 (写b)」も同類のものであるが、これらは中国にも朝鮮にも見当たらない。
イラン国立博物館にはペニスを露出したテラコッタがあり、
イラン人が石造物に関与したことの資料になるかもしれない。と記しています。

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(写a)                        (写b)

(1980年)
網干善教さんは『古代の飛鳥(参7)』の中で
由緒は不明としながら「フグリ山」との関係を示し
「マラ石」は生殖器信仰、農業祭祀との関連があるかもしれない、
関連する行事として、地元の「お綱掛け行事(写c)」や飛鳥坐神社の「御田植祭」など
五穀豊穣を願う農耕儀礼との関係も考えられる、と記しています。

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(写c)

(1983年)
猪熊兼勝さんは『明日香風(参8)』の中で
「立石(マラ石)」は寺院の境界に面したものであるが、四隅に立っておらず、
寺域を画する結界石とするのには根拠が弱い。
他の飛鳥の立石(図a)とも関連して考えると、
立石の内側の真神原、宮域との結界石的な性格をよみとることができる。と記しています。

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(図a)

(1993年)
菊池義裕さんは『飛鳥史疑 浪漫飛鳥(参9)』のなかで
『古跡略考(参4)』の記述を参考に
水利を飛鳥川に頼る里の人々の信仰で
川の上流に豊穣霊の存在を想いみる里の意識を背景に、
石は陽石とされ、豊穣・多産の象徴として伝承されたのであろう。と記しています。


(2001年)
千田稔さんは
『飛鳥-水の王朝(参10)』のなかで
飛鳥の立石(図a)にふれ、宮跡の外側に位置するので
宮域の結界石としてよみとることができるという説は興味深い。と記しています。

(2003年)
川上邦彦さんは『飛鳥を掘る(参11)』のなかで
立石の中のミロク石、マラ石、川原の立石(図a)はいずれも飛鳥川沿いに位置しており、
他の立石よりも小さく、加工されていることから、
橋の橋脚に利用されたものではないか、と推測しています。


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いくつかの書物より飛鳥の立石の「マラ石」に関する推測やイメージを記しましたが
著者各人のそれぞれの捉え方があり、推理の域を越えるものはなく、
造形の深い考察もなされていません。

造形的な検証もなされず、どうして「マラ石」と名付けられてしまったのでしょうか?


江戸期以後は『古跡略考(参4)』の記述にみるように
立石(マラ石)は豊穣に関わる偶像としてあつかわれていたようですが
嘉永元年には『西国三十三所名所図会(参5)』の記述にみるように
「陽石」と表現されており、頭部に割目があったことが推測でき、
以後、案内板に記されたような伝承話に発展していったのかもしれません。


もしそうであれば、「マラ石」というネーミングは江戸時代以降の伝承にまつわるイメージが
名付人の頭から離れず深い考察なしにつけられてしまったとイメージできないでしょうか。


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写真を撮っていると「オットセイみたいや」と声がきこえます。
案内板を見、
すごい名前。ストレートだな」と。

グループの一人がフグリ山のフグリ石との関係を語りはじめます。

グループの若い女性はだんまり気味。

たまりかねて、
これは、石のライオンですよ」と私は声をはさみました。

一瞬の沈黙に、

「先端の割れ目は後世のものとして、サイドのこの辺から見てください」と
ガイドします。

そういわれれば、、」と。

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いつだったか、
年配のご夫婦のような方にであいます。

これはすごいものがあるね」と男性が大声で近づいてきます。

女性が近づき覗き込むような姿勢に、

このようなすごいものに女性は手を触れはいかんよ、絶対触れないように」と。

プッ」とふきだしそうで我慢するのがたいへんでした。

案内板(写4)を見てさらに、
なんとな、すごいもんだな」と。

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イメージの世界は言葉の先入観によってその方向にひかれます。

私の推察がまちがっていても、「マラ石」のイメージよりは美しいかもと思いつつ、


夏恵子どう思う?」と尋ねると

オットセイもいいよね」と夏恵子がいいます。

湧き出るイメージを大事にしなくちゃ。権威で自分のイメージをおしつけちゃ駄目かもしれないね


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(注1) 坂田寺跡
坂田寺跡は明日香村大字阪田に位置します。

『日本書紀』
用明天皇二年(586年)の条に
天皇の病が重くなった時、鞍部多須奈(くらつくりのたすな・司馬達等の子)が
天皇に「私は天皇のおんために出家して修道いたします。
また、丈六の仏と寺をお作り申しましょう」と申した。
(省略)
今、南淵の坂田寺にある木の丈六の仏、脇侍の菩薩がこれである。
と記されています。(a)

推古天皇十四年(608年)の条に
飛鳥寺の金銅丈六仏を造った仏師鞍作鳥にたいする詔勅がみえ、
司馬達等(鞍作鳥の祖父)と鳥の功をあげたのちに
大任の位を授かり、近江国坂田郡の水田二十町を賜り、
鳥はこの財源で天皇のために金剛寺を建てた、
これが今、南淵の坂田尼寺である、といわれるものである。と記され、
鞍作の氏寺であったこと、後、尼寺であったことがみえます(a)

朱鳥元年(686年)の条に
崩御された天武天皇のために無遮大会(かぎりなきおがみ)を
大官・飛鳥・川原・小治田豊浦・坂田の五寺に設けたことが記されており、
天武天皇と関係が深かったことがうかがえます。

正倉院文書の天平十四年(742年)『優婆夷貢進解』に
「師主坂田寺尼信勝」と記されていて、正倉院中倉の献納物木札にも名前があるようです。(c)

天平九年(737年)には内裏に法典、
天平勝宝元年(749年)には東大寺大仏殿の東脇侍を献上しているようです。(d)

尼信勝の名は東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)の修中過去帳(写7)にも上位に見え、
奈良時代での尼信勝の力、坂田尼寺の旺盛をうかがわせます。


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(写7)

その後、十世紀後半には伽藍が土砂崩れで崩壊したようで(d)

建久八年(1197年)
『多武峰略記』では、承安二年(1172年)に多武峰寺の末寺になったこと(b)

嘉吉元年(1441年)
『興福寺官務牒疏』には興福寺の末寺に属していたこと、が記されています。(b)


前記の『古跡略考(参4)』には、
坂田寺これならん。里人云、むかしの金剛寺ハ村の前、祝戸領立石(マラ石)の上なる道東、
坂田領の田地此跡なり。此辺の字堂の前或ハ後なゝいふ。
橘の京の時宮女の寺と申伝ふ。と記されているようです。(b)


しかし、現在も飛鳥時代の遺構は発見できず、謎とされています。



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(写6)
(図2)の(写6)矢印方向、飛鳥京を望んむ。手前の草地は遺構回廊部分


古文献資料、『飛鳥時代寺院跡の研究(参2)などをもとに、
昭和49年より発掘調査がはじまり、現在も続いていますが、
発掘された遺構は奈良時代のもので、飛鳥時代の遺構は発見されていないようです。

ただ、金堂の須弥壇跡から鎮壇具が発掘されており、
その中に、水晶できた1センチほどの「小さなハート(写7)」や栓つきの10cm弱?の「双耳瓶(写8)」がありました。

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(写8)                       (写9)

水晶のハートは先日実物を見てきましたがとってもきれいなもの、素晴らしい加工でした。

ハートといえばペルシアの水の女神アナーヒター。
ペルシアの文化が古代飛鳥に渡来していたことは飛鳥寺建立の技術者名などから
伊藤善教さんが『ペルシア文化渡来考(参12)』で記されています。

また、2月堂、修二会のお水取りはイランペルシアの
カナート、コレーズ(地下送水施設)とつながるものがあることも考察されています。


ハートが水神の象徴、双耳瓶がお水取りの香水瓶であったなら?


坂田寺は
ライオン(獅子)-黄金比-ハート-お水取り・古代ペルシアへと膨らむのです。


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夏恵子が
ねね。坂田寺が尼寺だったとすれば、寺の前にチンチンの石があるのおかしいね?」といいます。

夏恵ちゃんもそう思う?」と答えました。




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(参1)(図1)(写1) 『NATIONAL GROGRAPHIC』ナショナルジオグラフィック日本版 2001-6
「アジア最後のライオン」文・写真 マティアス・クルム 日経ナショナルジオグラフィック社 2001より加筆
(図2) 明日香村教育委員会資料、「電子国土」 より加筆 概略図
(参2)(図3)(写5) 『飛鳥時代寺院跡の研究』 復刻版 石田茂作 第一書房  1977 
『飛鳥随想』 石田茂作 学生社 1972 より加筆
(参3) 『あすかの石造物』 図録第35冊 飛鳥資料館 2001 
(参4) 『古跡略考』 著者不明 宝暦元年(1751)
飛鳥地方の村々を実地調査、社寺の規模、沿革、口碑、現状を詳細に記述。
(参5) 『西国三十三所名所図会』 八巻十冊 暁鐘成編、松山半山 浦川公左 画
成立-嘉永元年(1848) 西国三十三所の礼所巡礼の道標、周辺の神社仏閣、、名所旧跡を紹介。
(参6) 『ペルセポリスから飛鳥へ』 松本清張 日本放送出版協会 1979
(参7)『古代の飛鳥』 網干善教 学生社 1980
(注1)(参8) 『明日香風』第6号 「月とメンヒル」 猪熊兼勝 飛鳥保存財団 1983
(参9) 『飛鳥史疑 浪漫飛鳥』「古記録でたどる飛鳥伝承紀行」 菊池義裕 新人物往来社 1993
(参10) 『飛鳥-水の王朝』 千田稔 中央公論社 2001
(参11) 『飛鳥を掘る』 川上邦彦 講談社 2003
(写7) 『お水取り』東大寺修二会千二百五十回記念展 図録 奈良国立博物館 2001 
「二月堂修中過去帳」 室町~江戸時代 より加筆
(参12) 『ペルシア文化渡来考』 伊藤義教 岩波書店 1980

(写8)(写9) 『飛鳥珍宝-のこされた至宝たち』 図録第55冊 飛鳥資料館 2011より加筆
ハートの大きさ-1.3cm、厚み-6mm

(a) 『日本書紀(下)』 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社 1988 より加筆
(b) 『奈良県の地名』日本歴史地名大系 平凡社 1981 より加筆
(c) 『飛鳥随想』 石田茂作 学生社 1972 より 加筆
(d) 『坂田寺跡の調査』 明日香村 HPより加筆



























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