Kのメモ DEC 13,2013 [店雑記・Kのメモ]
光と影
私の先祖は十津川の出らしい。
上野地屋という荒物商を新町筋の裏手のほうで営んでいたらしいけれど、
大祖父が酒飲みでなくしたらしい。
祖父は桶づくりを習い、桶屋になったと聞く。
住まいは三軒の借家を転々としたよう。
父に連れられ、住んでいたところを教えてもらったことがある。
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大和五條の紹介で、よく新町筋が記されている。
今も新町村を開いたとして二見城に居たM殿様(松倉重政)を讃え、
スポットをあてている。
残存する古文書だけで、
江戸時代の町の様子を見ることは難しく、どうしても私感が入るけれど、、
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一つのアバウトな資料から、私感的に覗き込んでみると、
光と影が見えてきます。
(図-1)
全体的な数の変動は空家が含まれていないためかも?
この表は
江戸時代後半の新町の所帯調査から借家と持ち家を表したもの。
約140年間の推移を見ることができます。
なんと言っても借家が多いこと。
そして、持ち家の軒数も衰退してること。
おそらく一部の家主により、集められていったのでは、と。(注-1)
嘉永2年(1849)から安政6年(1859)の10年間に、半数以上、家の所有者が
変わっていることも記されています。(注-1)
資料では
「この時代の町場では定住者が少なく、人工移動が多いという
都市的な特徴が見られる(注-1)」と記されていますが、
商いや生活が安定しなかったことが主因であったでは、、
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1608年、
M殿様は年貢諸役免許して、城下町振興を行い新町村を開設します。
1616年
M殿様の国替え後、天領(郡山藩の預領)となります。
天領となった後も年貢諸役免許は継続されますが、
お礼という形で年貢米が納められるようになったと。(注-1)
また、
1631年に記された『しんまち市ノ定可き物』では
「店を出すものは口銭米を出し、新町村の収入とし、」と
記されています。(注-2)
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M殿様の年貢諸役免許がクローズアップされてはいるものの、
新町村開設から8年以後、年貢米や口銭米の徴収があったのです。
江戸時代には豊後様と称され、祭礼が行われた、とあり、
今再びスポットを当て、新たな顕彰碑を設置し祭事を行っていますが、
借家の軒数変動からは一部の民のみ富を得たのかもしれません。
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ものには光と影があります。
光と影を描くことにより、実像が見えてきます。
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私はよく五條の悪口をいいます。
Fさんに「そんなことばかり言ってるとみんなに嫌われるんだから」と
心配してくれますが、、
田園という振興住宅地域があり、出来て20年以上経ちますが、
当初転入して来た人たちが再び元に帰っていくと聞きます。
相容れない何かが根深く存在しているのかもしれません。
もしかしたら、真の輝きがないからかも、、
清流に住むアユは今は見ない。
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(図-1)『五條の歴史と文化』五條市立博物館 1995より加筆
(注-1)『五條の歴史と文化』「近世の五條」五條市立博物館 1995より
(注-2)『奈良県の地名』「新町村」日本歴史地名大系 平凡社 1981より
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