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Kのメモ DEC 31,2013 [店雑記・Kのメモ]


Light of December-飛鳥の光9



吉野宮滝の吉野宮があったところから少し東に向かうと菜摘(夏箕 なつみ)というところがあります。

ポカポカと春になれば行きたくなるようなところ。


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法隆寺境内にも花がいっぱい咲きほころぶところがあったようです。

Mhanazono1231.jpg
(図-1)


『法隆寺の謎』の「なぜ若草伽藍とよばれるのか」で

「法隆寺の境内に若草伽藍と呼ばれる場所がある。
子院の普門院と実相院の裏手にあたり、今は草が生い茂った空き地である。
その南側には重要文化財に指定された大垣が東西にのびている。
その大垣近くには若草の塔心礎と伝える大石がある。
それが創建法隆寺(斑鳩寺)の跡であると伝えている。
平安時代にはこのあたりを「花園」と呼んでいたことが経巻の奥書によって知られている。
おそらく西院伽藍の南にあって仏前に供える花や野菜を栽培していたところから、
そのような名がつけられたらしい。
江戸の宝永年間(1704〜11)になると「若草」と呼ばれるようになり、
『古今一陽集』に土俗の伝として「若草之伽藍」があったとする記事がはじめて紹介されている。
それ以来、この地を若草伽藍と呼んでいるが、
記録の上では花園というのが最も古い名称である。
私は花園が徐々に荒廃して、やがて雑草が茂る野原と化したことから若草という
名称が生じたのではないかと考えている。
いずれにしても
若草という名称がそれほど古い時代のものではないことだけはたしかである。」

と記されています。(注-1)

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「飛鳥の光5」「大織冠と法隆寺」で
阿武山古墳の副葬品の一品が大織冠であったとされていることを記し、
冠り口の文様が升目帯状でその中に四弁の花文様や雲気文、竜文のようなものが
刺繍されていたのでは、と精査されたことを記しました。

私は雲気文を
法隆寺金堂、中門、五重塔の特徴的な大斗の上の斗栱(ときょう)の雲斗(くもと)や雲肘木(くもひじき)に
イメージをかさねました。

そのとき金糸のループ状の花文様はイメージできませんでした。

Mkinsi1230.jpg
(図-2)
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上記のことを知り、花園の華文かも、と。


Mdaisikikan1231.jpg
(写-1)

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阿武山古墳の被葬者のことを詳しく記した『蘇った古代の木乃伊(ミイラ)』には
髪や毛のことは記されていません。
サンプルとして京大の研究室に残されていた中に
頭髪少々、頬髯(ほおひげ)少々、と記載のみ。

『隠された十字架』で
四天王寺の塔の心礎に納められている仏舎利容器には聖徳太子の
御髪四把(つか)納められているとし、
四天王寺の塔の心底に納められていることから、法隆寺の塔の心底にも納められているのは
疑うことは出来ない、と記しています。(注-3)

つまり聖徳太子の御髪が納められている、と。

果たしてそうでしょうか?

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もう一度鎌足の墓所に戻ってみます。

『紀』天智天皇八年十月十六日の条に、鎌足が亡くなったことが記され、
追記の『日本世記』には「内大臣、五十にして私邸で亡くなった。
遷(うつ)して山の南に殯(もがり)した。、、、」と記されていることを記しています。

山は阿武山を示したとし、

山の南とはF線上を示していたとすれば、線上に殯りしたことになります。

Myamaminami1231.jpg

『大織冠伝(藤原氏家伝 上)』には天智天皇が鎌足に詔した言葉として
汝の誓願の如く、観音菩薩(かんのんぼさつ)の後に従い、兜率陀天(とそつだてん)の上に到り、
日日夜夜、弥勒(みろく)の妙説を聴け。(注-4)

大臣性三宝を崇(とうと)び、四弘を欽尚(きんしょう)し、
毎年十月法筵(ほうえん)を荘厳(しょうごん)し、
維摩之景行(ゆいまのけいぎょう)を仰ぎ、不二の妙理を説く。(注-4)
など記されているようです。

これは法隆寺の空間、五重塔初層空間、中門をイメージしたものではないでしょうか。


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阿武山古墳の大織冠の記事を目にし、

復元された玉枕から鏡女王の歌に至り、

法隆寺五重塔相輪の鎌は鎌足の「鎌」など、

いろいろイメージをふくらませ、コラージしてきました。

十二月の光と題したのに終われない、とヒヤヒヤしながら、、

やっと、綴りおえることができたかも、と玉枕をながめています。


Mtamamakura1231.jpg

でも、まだ闇の中かもしれない。

枕のかたちを整えなくちゃ。

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(図-1)『法隆寺』村田治朗 上野照夫 著 佐藤辰三 撮影 毎日新聞社 1960より加筆
(図-2)『蘇った古代の木乃伊』 小学館 1988 写真よりスケッチ
(写-1)『ふたつのあすかの終末期古墳』近つ飛鳥博物館図録60  2010 より写真 加筆
(注-1)『法隆寺の謎』高田良信 著 小学館 1998より抜粋
(注-2)『隠された聖徳太子の世界』NHK出版 2002
(注-3)『隠された十字架』梅原猛 著 新潮社 1972
(注-4)『蘇った古代の木乃伊』「藤原鎌足の墓所について」直木孝次郎 著 小学館 1988より抜粋
















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