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Kのメモ APR 22,2014 [店雑記・Kのメモ]



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夏恵子の珍道中記

飛鳥の石造物-9-1

珍石の主を求めて石の所在地から坂田尼寺にいたり、
カナートの世界から磐余池へと辿り、
厩戸皇子の上宮が坂田尼寺跡の寺内にあったのではと推理した。

これらから寺内にあったとする珍石の真相はおもしろみが増した。

高校の時撮った写真もまじえ、明日香に残存する他の石造物とも比較検討してみた。

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(飛鳥の石造物表)
 
明日香には飛鳥時代の多くの石造物が残存している。
しかしその石造物については古文献には表記されておらず、
ほとんどが謎に包まれているのが現状である。
よってそのものの場所からの推測の域をでないまま多くの論考がなされてきた。

ただ松本清張氏は小説という分野のなかで飛鳥の石造物を据え、
ペルシア文化とむすび独自の視線で『火の路(新聞連載小説では火の回廊)』を記し
飛鳥ブームに火をつけた。
古代ペルシアの聖火壇に火が灯ったようだったにちがいない。
 
それら多くの石造物の特徴は「水」に関係し、
Ⓦ水辺であったり、Ⓖ導水のものであったり、Ⓕ噴水であったりとする。
そして人物を描いた像はすべて②二面像であり立石もその類と推察する。

宮域から寺内にあるものは元宮地であったと推測され、
橘寺内の二面石は他から持ち込まれたものと記されていることから(注-1)
表に記した石造物は寺内にはなかったことになり、
珍石も元は(坂田寺の地に上宮があったと推測すれば)宮域にあったとも考えられる。

また、珍石と似るものを探すと、
頭部が丸く段付きであることから須弥山石、弥勒石が該当し
これらに含む要素が珍石に潜んでいることもわかる。

『紀』には須弥山に関する記事が四度記されている。

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 特に興味をひくのは推古天皇二十年に記されている記事で、
路子工(別名-芝耆麻呂)がつくったとされるもの。
須弥山とされるものは噴水の「須弥山石」以外みつかってなく、
須弥山の形と呉橋を南庭に構つよう命じられるが
「南庭」を『紀』では「おほば・御所の庭」と注釈され、小墾田宮の庭であったであろうと推定している。
また「呉橋」は「中国風の反りのある石橋では」と解さしている。


Bsekizoubutu4.jpg

 上右の地図は南の地とも呼ばれるインド亜大陸の地図で、上左の写真は珍石を反転し直立させたものである。

⑴石の下部ⓒが南インドの反りのある地形に類似すること、
⑵「南庭」の「庭」の字源を見ると説文に「宮中なり」とあるが、
もと廷は土地神を祀り灌鬯(かんちょう)して儀礼を行う場所、と記されており
珍石が地中に約40㎝ほど注し埋められていることなどから、珍石の特徴が含まれることに気付きく。
 
夏恵子は「じぇ、じぇ、じぇのじぇーじゃないの」と思った。

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 さらにインド亜大陸上部に仏教、ヒンズー教の聖地、カイラス山がある。
この山が仏教の宇宙観を示す須弥山の世界の現像としてとり入れられている。
このようなことから珍石の先端部は須弥山を表し、
続く段状の方形は遠く高く位置する須弥山界を表現したもの、
構け(前後をかみ合せうまく組立てる)と命令されたことから、それらを構成し制作したのかもしれないと思った。
 
珍石の地の小字名に立石と並び石橋とある。
明日香には立石と石橋が並記される小字名は他にない。
とすれば、推古二十年の須弥山の記事は路子工(芝耆麻呂)がつくった珍石の可能性が高まる。
 では、呉橋をどのように解すればいいのか、

Bsumisen5.jpg

イメージを描くと日本名百橋のひとつとされる大分県宇佐市の宇佐神宮に呉橋の形が現存している。
呉人がつくったことから呉橋と称され、鎌倉時代にはあったとされる橋である。
反りのある箱形(屋根形)を表し、珍石が反りのある角柱を表現していることからもイメージが重なる。

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「呉( )」を字源でみると(口)と(そく)からなり、
(口)は祭器、(そく) は人が背を傾けている形で、
祝祷の器をささげ身を曲げ舞う形だと解され、珍石の形に似るものをイメージできる。
(上部字形は金文)

『紀』推古20Z年(612年)の須弥山の記事のあとに伎楽の舞いのことが記されている。
百済人味摩人が帰化し、
「呉で舞いを習い、伎楽(くれがく)の舞いを習得した」という。
桜井に安置して、少年を集め伎楽の舞いを習わした。とある。
注釈には
その面が正倉院、東大寺、法隆寺に現存しているとされ、
舞いは厳粛なものではなく、こっけい卑俗なものだったらしいと記している。

夏恵子は「土着民俗化し、御田祭り(注-2)になったのかしら?」とイメージしながら、
「珍石もマラ石と称されるようになったのはそのような変様があるのかもしれない」と思った。

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推古20年に百済より多くの渡来人がやってきたが
路子工もその一人で白皮症らしき様子を『紀』に記している。
『ペルシア文化渡来考』で白皙(肌の色が白い)のペルシア人を見ての驚きを記したものだとし、
路子工の「路」と「芝耆麻呂」より「計算(測量)・設計に明るい人」と解し、
人名ではないことから「路工」→「路子工(芝耆麻呂)」であったのでは、と解している。(参-1)



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(飛鳥の石造物表写真)
須弥山石・二面石・立石・石人像『あすかの石造物』 飛鳥資料館図録第35冊 2000 より加筆
苑池遺跡導水石『飛鳥依遺珍』 飛鳥資料館図録55冊 2011より加筆
呉橋『呉橋』ウィキペディアより加筆
(参-1)『ペルシア文化渡来考』 伊藤義教 岩波書店 1980
(注-1)『日本古代史の旅6 飛鳥』「なぞの石造遺物群」樋口清之 小学館 1974
(注-2)明日香村大字飛鳥にある飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)に伝わる二月の祭事。
天狗、翁、年男、農夫が田植えの所作を演じ、後半お多福と天狗、仲人役の翁が婚礼の式を行い、
拝殿中央でお多福と天狗がこっけい卑俗に夫婦和合を演じる豊穣繁殖を願った祭事。




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