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Kのメモ APR 23,2014 [店雑記・Kのメモ]



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夏恵子の珍道中記

飛鳥の石造物-9-2

 推古20年の⑴の須弥山は珍石としたが、
では他の斉明朝につくられた三つの須弥山⑵⑶⑷はどのようなものであったのか推考する。
 
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要点は表(飛鳥の石造物-9-1)に記したが、
まず饗応をともなっていることから宮域内と考え、
斉明朝の宮域(グレーゾーン)を設定する。(注-1 掘立柱塀による推定ゾーン)

明るい部分は沼地や丘陵、山陵の裾野となり饗応に適しないことから除く。

甘樫丘(斜線部分)も除く。次に饗応の場、門域を推察すると矢印の二カ所が考えられる。
 
⑵は「飛鳥寺の西に作る」より図の白二点鎖線で記した域内と考えられる。

⑶は「甘樫丘の東の川上(かわら)に造った」とあり、
「川原宮」あたりまで甘樫丘の尾根が延びていることから図の点線の域内(⑶A・B)とする。

⑷は「石上池の畔に作った」とあり
「石上」は「石の辺り」となり「石の辺りの池」の「畔」に作ったことがイメージできる。
「畔」の字源を求めると説文に「田の境なり」とあり「池の境に」と解せる。
つまり「石の辺りの池の境につくった」ことより宮域から池を探すと
「飛鳥京苑池遺跡」があることがわかる。

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 これらの域をもとに表(飛鳥の石造物-9-1)から石造物を探すと⑵の域には「須弥山石」「石人像」がある。
ふたつの石像物は石神遺跡から発掘されたもので、
「須弥山石」は三体の石を積み重ねることにより四方に水を噴出する噴水構造が備わっている。
この「須弥山石」を⑷の「廟塔のごとし」と混合しがちであるが、
同時に発掘されたペルシア系の男女の「石人像」も噴水をともなうことから、
トカラ人(ペルシア系)を饗応した時の⑵に相当するものとイメージする。

 ⑷は「須弥山が廟塔のごとし」と記されており
そのような高さを表すようなものが発掘されていないことから謎につつまれているが、
このヒントは⑵に記された「甘樫丘」にあり、
丘陵など高台から望むと廟塔のように感じられたことを記したものとイメージすると
「飛鳥京跡苑池遺構(斉明朝造営のもの)」であったと想定する。
 
⑶の白点線域にそのような石造物が現存するか調べると「弥勒石」と「亀石」がある。
これにもヒントが記されいないか探すと
「川上、此れおば箇播羅(かわら)と云う」と記された補填記事があった。
前記した「川原宮」あたりを「川原」と称していることから
⑶B域とすると、川原宮跡に建立された川原寺の寺内にあったとする「亀石」が想定される。

 
以前から
「亀石」は二本足や羽根の彫りがあることから「ぜったい鳥」と思っており、

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箇播羅の「羅」の字源を求めるとト文に「あみで鳥を覆う形のものがあり」
説文に「糸を以て鳥をあみするなり」と記されていることから、
被い冠るような「亀石」の形状そのものを記していると感じた。

そして
「鳥をあみする白い糸網はスメル山、
カイラス山の積雪をイメージした須弥山を表したものだったかも」と思った。

「これで、四つの須弥山の謎が解けたかも?」



きっと飛鳥って、飛ぶ鳥の視線で見つめないと真相がみえてこない。

天上からの視線を暗示しているのかもしれない。


.................................................................

(注-1) 二点鎖線は(掘立柱塀による推定ゾーン)は
『飛鳥をめぐる掘立柱塀の謎』 相原嘉之 明日香村教育委員会より図を参考に加筆
(⑵-石人像)『斉明紀』飛鳥資料館図録第29冊 2003より加筆
(⑶亀石)『川原寺発掘調査報告書』奈良国立文化財研究所 1972より加筆



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