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Kのメモ APR 28,2014 [店雑記・Kのメモ]



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夏恵子の珍道中記

ペルシアと石城-12-2

 
 
 ペルシアの簡略年史から鞍作鳥一族、路子工のペルシア系渡来人を遡ってみる。

Mnenpyo2.jpg
(表-1)

Bpersia2.jpg
(図-1)

⓵紀元前2000年〜1800年頃にアーリア人(イラン人)が
南ロシアの平原から近東に移動したことから始まる。
そして移動、勢威支配を重ね、
アッシリアⓐ、メディアⓜ、バビロニアⓑ、リュディアⓡを支配圏におさめる。
 
⓶紀元前559年ときを経てペルシア民族は世に知られない民族から、
やがて爆発的な勢いで最初の世界帝国ペルシアをつくり上げる。
キュロス王、後継のクロイソス、ダレイオス王により近隣を支配しペルシアの全盛期を築いた。
  全盛期は広大な地域を支配していたことは中東地図からもみてとれ、
2400キロにおよぶ王の道の建設や地中海と黒海をつなぐ運河を
つくったことからも
当時の勢力がうかがえる。  

また近年の発掘調査で首都ペルセポリスⓟに築かれていた石城から帝国の偉大さが明らかになった㉗。
絶頂期にあり強大を誇った石城はイラン南部の平原の段丘上に整然とそびえ立っていたのである。
 
Bpersia3.jpg


⓷紀元前520年石城はダレオス王の発案で約13ヘクタール(1.3k㎡)という広さの段丘上に
管財庫を含む多くの建築物を集約させ、地下に下水設備を供えるという構想から造営されたとされる。
城は新年の祭礼のみに使用し、帝国全土の使者が招集され、王に貢ぎものを捧げた。
階段側石には多くのレリーフが彫られ、王の権威が描かれいた。
柱廊の石柱の上には双雄牛ⓕなどが
木梁をささえていた。
 遺跡の平面図からはペルシア帝国を築いた
王の宮殿(ダレイオスの宮殿)ⓐ・アルタクセルクセス一世の宮殿ⓑ・クセルクセスの宮殿ⓒが建ち並び、
アパダナ(謁見の間)や王座の間、管財庫などが方形区画され、正門には巨大な牛像ⓓが建立していた。

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しかし、ペルシア帝国の全盛は長期には続かず、
隣国との戦いに破れ⓸、
紀元前330年アレクサンドロスの東征に至って首都ペルセポリスは焼かれ陥落する⓹。

その後、ササン朝ペルシア⓺として再興されるが
642年アラブ勢力に敗退しペルシアササン朝帝国も滅亡に至った⓻。
 
偶然なのかこのペルセポリスの石城と坂田尼寺と同じ方位角で造営されていることがわかる。
また設営された地が段丘上であることも類似し、
さらに注視すると王座の間の区域と坂田尼寺伽藍域が微かながら類似するものがみえてくる。
 
伊藤氏は『ペルシア文化渡来考』で鞍作鳥にふれ、
「鳥」(止利)はトゥールの対音であるとし、
トゥールとは
地域や部族の名称たる
トゥーラーン(現シースターンとマクラーンの中間からインダス海岸に及ぶ地域)の原辞をなすものとし、
とくにトゥーラーンはゾロアスター系イランに対抗する要素とされ、
トゥーラーン人といえばゾロアスター教徒には怨憎の的とされたと記している。
これらから鞍作鳥はシゥーラーンの地に関わりをもっていたと推測すると、
石城のペルセポリスまでは800〜500㎞の距離の地であり、
馬族であったとすれば十分見知できたと考えられる。
(石城の遺構は資料などから相当部分露出した状態で廃墟化していたものと推察する。)
 
路子工については職名から地域を推測する資料はない。
ただ白皙のペルシア人であり、ただれ白皮症的な記載表現から驚きは隠せなかったことは前記した。
『ゾロアスター教』には
イラン高原やインド亜大陸に移動したアーリア人の
金髪碧眼の白人人種は20世紀の統計で16人中一人としており、
飛鳥に渡来した路子工は際立っていたことは確かと思える。
 
インド亜大陸に移動したアーリア人は
紀元前1500年頃からガンジス川流域に定住し、旧民族がインド亜大陸南部を南方と称していたのを
アーリヤーバルタ・アーリア人の土地と称したとされる。


1400年前の尋ね人を探すのはむつかしい。

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坂田尼寺跡伽藍とぺルセポリスの石城が同じ方位を示すことを見つけた。

「ここから何が読み取れるのか?」と思いながら時間が過ぎた。

書き記した下書きや資料を整理していると出てきた。

なぜスッとイメージできないのか「大きなポカ」である。

坂田尼寺跡と官寺が一線上に位置することを記したが、
その方位角も同じだった。

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ペルシアと飛鳥のつながりの始点
はこの地だと言っても過言でないかもしれない。


厩戸皇子が住んでいた上宮の地を鞍作鳥に賜え、鳥宮を以て
改めて坂田寺を造ったことが『法隆寺東院縁起』に記載されている。

当初、鳥宮だったことからも「飛ぶ鳥の」飛鳥が浮かんでくる。




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(表-1)
(図-1)㉗ⓓⓔⓕ『大帝国ペルシア』
 ジム・ヒックス タイムライフ編集部 後藤 建 訳 タイムライフブックス 1980より加筆
(図-1)『ゾロアスター教』青木 健 講談社 2008 より参考加筆
『坂田寺跡伽藍復元図』 明日香村教育委員会より加筆













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