Kのメモ APR 26,2014 [店雑記・Kのメモ]
夏恵子の珍道中記
フグリ山-11
夏恵子は
高校の時、
珍石の対岸にあるフグリ山に登ったことがあった。
フグリ山は230mほどの小高い山で国営飛鳥歴史公園の祝戸地区の事業の一環として整備された。
山腹にある祝戸荘を迂回するようにアップダウンの道を登っていく。
尾根沿いの道はゴロゴロ岩石が露出しており、
二カ所の展望台の木立の合間から飛鳥の絶景を見ることができる。
甘樫丘からみる飛鳥の景観も美しいが
フグリ山からみる南からの眺めもちがった美しさがある。
下山の途につき15分ほど?歩くと大きな卵形の岩石をみつける。
「これが噂のフグリ石かも」と
昔、地震で中腹に転げ落ちたとするものと重ねたが、整備された立地からはあり得ない。
記念にカメラにおさめた。
フグリ山に登った時の写真は
二年ほど前にパソコンの誤動作で消失させてしまった。
探し探しやっとのことでプリントアウトしてあったものをみつける。
そして石の写真をS子にメールで送り、珍石との比較を頼んだ。
大きい感じがして不釣合いとは思っていたが、S子らしい返事がきた。
「かえこ、ええ加減にして。解るはずないでしょ」
.......................
飛鳥から藤原へ、
そして奈良に京が遷都し輝きあった景観も薄れ去り、
雑草の茂みから斜立する珍石は農村の豊穣神として土着信仰化されていったのかもしれない。
「字天守山 名のごとく大体丸き石二つ重ねたり、
上なる石動き、いかにもことやうの物なり」と
『飛鳥古跡考』(1751年)に記されている。
江戸時代にフグリ山を天守山と称されていたらしい。
(参-1)
この山のならびに小字名のミハ山と称される山がある。
「ミハ」を『和名抄』では「美和」「神酒」とする。
「呉橋」の「呉( 吳)」の字源を求めたとき口と(そく)からなる字をもって、
口は祝祷の器、
(そく)
を人が背を曲げ踊る形と解されていた。
祝祷の器は神酒の器でもある。
「上なる石動きいかにも、、」は背を曲げ踊る形と見なすと
呉橋を暗示する山とも解せるかもしれない。
小字名「立石」のところに珍石があることは記したが、
その上に「石橋」の名がある。
みてぐらを 奈良より出でて 水蓼 穂積みに至り
鳥網張る
坂手を過ぎ 石橋の 神なび山に 朝宮に 仕へ奉りて
吉野へと 入ります見れば いにしへ思ほゆ
《万葉-3230》
幣帛(ぬさ)をならべる奈良の都をでて、
水蓼(みずたで)の穂積にいたり、
鳥網(となみ)を張る坂の坂手(さかて)をすぎ、
神なび山の行宮では朝の祭事にお仕え申し上げ、
吉野にお入りになるさまを拝すると、
むかしのありさまもかくやと偲ばれる《注-1》
天皇が平城京から吉野行幸する様子を道行き風に詠ったものと記されている。
おそらく珍石に沿う稲淵川(飛鳥川上流)沿いの道を旅されたと思う。
「解説」によると
巻
13の雑歌では
都にすむ人が次第に遠い田舎に旅する様子を詠い、果ては天界に想いをはせ
長久を願う
構成になっていると記されている。
《参
-1》
一説にミハ山を「神奈備山」と解釈していることからも
天守山と合わせ集約されるのは天と神だと思った。
坂田尼寺跡同様、フグリ山の東よりに立てば、
飛鳥寺、大官大寺、高市大寺が一直線に見通せるはず。
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S子から添付メールがきた。そえ書きは「chin」のみ。
フグリ山麓で目にした石はやっぱり大きすぎた。
「S子。ありがとう ♡♡ 」
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(図-1)『スタンプラリーパンフ』(財)公園緑地管理財団 より加筆
(参-1)『飛鳥地名紀行』池田末則 ファラオ企画 1990より
《万葉集 四》「 新潮日本古典集成 新潮社 1982より
《参-1》『万葉集 四』解説」橋本四郎 新潮日本古典集成 新潮社 1982より
2014-04-26 03:04
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