Kのメモ FEB 22,2015 [店雑記・Kのメモ]
小山田遺跡-4
線上に「小山田遺跡」を追っていると、十市皇女に至った。
そして高市皇子の挽歌にイメージがふくらんでいく。
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ヤマブキは目にしてよさそうな低木だけど、記憶になく調べてみる。
『言語辞典 植物編』には、
『大言海』に
「山振の義、細状(細い枝)風に随ひて搖けば言ふ」とあり、
的中していると記し、「山振の立ち儀ひたる山清水、、、」をあげ
「山振」文字を使って語義をずばり表している。と記している。(参-1)
また、
『植物一家言(参-2)』から
「嫋々たるしなやかな長い枝がしわんで、それに顕著な黄花が
联着(れんちゃく)しているところへ、山風が吹いてきて、その花が動揺するので、
それで山吹であろう」を例にだし、詳しく述べている。とも記している。(参-1)
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『日本の野生植物 木本1』をみると、
しわむ長枝から側枝が出、黄色の花を咲かせているのがわかる。
花が咲き終わると、側枝は脱落するようである。
(写-1)
注釈に山吹の花の黄色と山清水の泉に「黄泉」のイメージが
隠されているとし、「黄泉の国」まで逢いに行きたい歌と
記されている。(参-3)
『記』や『紀』の黄泉国神話に横穴式石室と
重なるイメージがあると記されている。(参-4)
これらからも、
あなたの眠るところを訪ねて行きたいと思うが、
どこなのか道がわからない(道之白鳴)。
と、枝の状態が線上のイメージとかさなる。
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一線上に陵墓をつくることは天皇陵からも知られている。
また、官寺が一線上に点在することも以前に記した。
線上にものを計画し、造ることは決して不思議なことではない。
深い考察やつながりの中で位置や行動が決められていく。
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天武期をもう少し拾い出すと、
天武4年(675 )2月 安倍皇女と共に伊勢神宮に参赴(もう)でる。(1)
同年春 斎宮を倉梯(くらはし)の川上に竪る。(2)
同年4月7日 十市皇女、卒然(にわか)に病発して、宮中に薨る。
14日 十市皇女を赤穂に葬る。(3)
と、『紀』に記されている。
(図-1)
(1)の伊勢参宮の道は、初瀬から榛原・室生三本松を経て、
名張・阿保・雲出川上流に出るコースが推定されているようだ。(参-2)
榛原、室生から榛原石とのつながりがイメージされると共に
2号墳の近辺の道を通り初瀬に出たのかもしれない。
(2)の倉橋は桜井市倉梯の地とされ、斎宮跡は見つかっていないが
倉橋川の川上は(イ)の薄緑の範囲ではと思い描く。
崇峻天皇陵と記した辺りに柴垣神社があったとされ、
俗に天皇の神といわれたようだ。(参-5)
(3)は前記したイメージから「舞谷古墳群2号墳」と推測したが
「粟原寺跡」と「天王山古墳」とも線上に位置することがわかる。
そしてこのラインを西に延長すると、ほぼ「吉備池廃寺」の百済大寺に至る。
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多武峯の談山神社に粟原寺塔侶露盤の伏鉢(ふくはつ)が所蔵されていた(現・東京国立博物館蔵)。
伏鉢の陰刻銘文に、
天武天皇の時、中臣大嶋が草壁皇子のために伽藍の造営を発願しこと、
持統天皇8年(694)に比売朝臣額田が起工し、金堂をつくり丈六の釈迦像を安置したこと、
大嶋没後、和銅8年(715)に三重塔も整ったこと等が記されている。(参-6)
(写-2)
この比売朝臣額田を額田王の後年とする一説がある。
K線の延長を東に求めた時、粟原寺跡の背山付近に至り、出かけたことがある。
その時は山上からの峯間の中腹に位置することを確認しながら、
「粟原流れ」と伝えられる土石流により崩れたという思われる
イメージを描いたりしたが、
谷馨氏などの否定説(参-1)などからも、イメージは膨らませることは出来なかった。
しかし、(3)から2号墳の被葬者を十市皇女と推測すると、
線状から額田王のイメージへと繋がっていく。
粟原寺は草部皇子のために中臣大嶋が発願したようであるが、
中心となる金堂は比売朝臣額田が建立している。
粟原寺跡から2号墳を見通すことが出来るのか?
等高線に沿い描いてみると、
(図-2)
粟原寺跡(270m・標高以下同じ)から天王山古墳(150m)まで見通せ、
その先の小山の214mのピーク点に重なり
2号墳(150m)が位置していることがわかる。
さらに興味をひくのは、2号墳、天王山、舒明陵とも、
ほぼ150mの標高に位置しており、これらの古墳が
標高を意識し築かれていることもわかる。
前記の伏鉢銘文には
「願七世先霊共登彼岸(願えば七世の先霊共に彼岸に登らんことを)」も見え(4)、
遡れば崇峻天皇の代に至ることからも
「粟原寺」は「天王山古墳」を見据え建立されたのではないだろうか。
崇峻天皇陵は元禄時代には(赤坂)天王山古墳としていたが
安政2年(1855)以降は天皇屋敷とも称される寺の所在地に
変更され、現在の「崇峻天皇陵」となっている。
しかし、
天王山古墳の被葬者を崇峻天皇とする説が有力とされている。
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額田王はそっと天上線を描き偲んだのかもしれない。
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(参-1)『語源辞典 植物編』吉田金彦 編者 東京堂出版 2001
(参-2)『植物一家言』牧野富太郎
(写-1)『日本の野生植物 木本1』平凡社 1989より加筆
(参-2)『額田王』直木考次郎 吉川弘文館 2007
(参-3)『万葉集 1』新潮日本古典集成 新潮社 1976
(参-4)『横穴式石室誕生』図録45
「横穴式石室と黄泉国神話」市本 芳三 近つ飛鳥博物館 2007
(参-5・6)『奈良県の地名』日本歴史地名大系30 平凡社 1981
(写-2)粟原寺三重塔伏鉢銘文拓本
(図-1・2)地理院地図 GSImapsに加筆
(図-3)標高概要図
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