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Kのメモ MAR 1,2015 [店雑記・Kのメモ]


suberi0218.jpg
小山田遺跡-5

イメージの膨らみを得ようと欲張ると風船のように破裂する。



粟原寺跡から天王山古墳、小山のピーク点(a)を経て2号墳に至った。

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この経過から、粟原寺跡から天皇陵も見通せるのでは?と一線を描いてみると、
山裾のピーク(b)を経て鏡女王の墓に至った。

oubaratera0224.jpg
(図-1)
ピーク点(標高260)の背に隠れ、女王の墓が位置する。
おそらくこの視線を意識し、鏡女王の墓の位置は決められたと推測する。

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fukuhatu0223-1.jpg
(写-1)

伏鉢の陰刻銘文は、
字体から薬師寺東塔擦銘にも相通じる書風、
天平年間(729〜749)頃以降の書に比較すると
古風を残し、7世紀金銅仏銘に比べれば遥かに新しい書風とし、
隋から初唐にかけての一般的な書法を学んだもの(参-1)と記している。

陰刻銘文には天武天皇が飛鳥浄御原宮のおり、
中臣朝臣大嶋が草壁皇太子のために粟原寺の造営を発願したとし、
起工は持統8年(694)、比売朝臣額田が行ったことは記した。

『紀』には中臣朝臣大嶋の官位、職務記事が多く記され、
日本最古の漢詩集『懐風藻』にも二編の詩を載せている。

それに対し、
その後、寺を起工し、金堂を建立、丈六の釈迦像を安置したとする
比売朝臣額田の名が古文献に見えないことなどありえるだろうか?と疑問が深まる。

oosima0306.jpg
(表-1)

上記のように作表に見ても、比売朝臣額田の空白が不自然でならない。

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ほぼ真っ白いベールをはがし、比売朝臣額田を額田王と仮定して想像の接点を
描いてみることにする。

oosima0306-1.jpg
(表-2)

額田王について『紀』には、
天武2年(673)、天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生す。
しか記されていない。(7)
他の資料は『万葉集』に「額田王」の名称で十二首の作歌があり、
その魅力的な作風から、女性万葉歌人として多く語られ、美人ともされてきた。

しかし、
天智天皇崩御時に詠った二首以降は、弓削皇子との贈答歌まで歌は見つからない。
そのことは、(表-2)からも解る。
比売朝臣額田のベールをはがし、額田王を求めてもあまり見えてこないのである。

ただ、新たな三つの痕跡にイメージを描く。

それが(8)十市皇女(舞坂古墳2号墳と推測)と(9)鏡姫王の死去(押坂陵域鏡女王の墓)と
最後の歌の贈答歌(10-?)である。

これらから中臣朝臣大嶋との繋がりを求めるのであるが、、。

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(1)は中臣朝臣大嶋が『日本紀』の編纂に関り
上古の諸事から時と場所、目的、結果を筆録している。

(2)は中臣朝臣大嶋が
諸国に赴き、境界の区分をしていることから、
地理、測量の知識をもっていたことが解る。
線上を意識することができ、描くことができたと推測する。

(3)からは基点(O)の酒船石遺跡が浮かんでくる。
酒船石遺跡については多様の説があるが、
一説に相原嘉之氏の酒船石遺跡を大嘗宮とする説がある。(参-4)
この説に従うと大嘗祭において中臣朝臣大嶋は神官長(神祇伯)として寿詞を読むなど、
大嘗宮、酒船石遺跡を十分認識していたことが解る。

これら中臣朝臣大嶋の官人としの業績を考えると
上古、神事に詳しいだけでなく、時と場所、方向を熟知していたことから、
基点、線を(自在に)描けたことは、想像に難くない。

その線上に額田王、鏡姫王の歌が点在することは、
釆女的素養を感じる額田王と鏡姫王が
神事、祭祀をとおして
中臣朝臣大嶋と繋がる関係であったのでないかと推測できる。

(10-?)は、
持統7年五月の吉野宮行宮の時に詠った弓削皇子との贈答歌である。
この吉野宮行幸の時を7年5月とも解しているが、
『紀』には3月6日に行幸したことも記され、次に
11日に直大二藤原朝臣大嶋に賻物(はぶりもの)を賜わしたこと、
そして、3月13日に帰ったことが記されている。

行幸は吉野に遊んだ中臣朝臣大嶋を偲んだのかもしれない。

yuzuriha0301.jpg
(写-2)

以前ブログに『線のメッセージ』を記し、
これらの歌言葉にイメージをふくらませたことがある。
そのとき、
「弓絃葉の御井(ユズリハのみい」を酒船石遺跡湧水施設の井戸とイメージし、
ユズリハや鳥、松の枝、苔などを性急に線のイメージに重ねたことがある。

この酒船石遺跡と線のイメージが(3)により、更に大きくふくらむ。

吉野宮から弓削皇子が額田王に贈った最初の歌は、

古に 恋いふる鳥かも 弓絃葉の 御井の上より 鳴き渡り行く(万2-111)

弓絃葉を多くは交譲木とし「弓絃葉の御井」を
吉野の宮域、吉野(六田)の聖泉、不明、、などと解しているが、
具体的に場所は示されていない。

しかし、
(3)から大嘗祭(天皇即位の儀式-交代)が行われた大嘗宮の井戸と解すれば、
酒船石遺跡の湧水施設の井戸と重なるのである。

この大嘗祭において神官長だったのは中臣朝臣大嶋であることは記した。
7年3月に中臣朝臣大嶋は賻物を賜わるとあり、
7年3月の吉野宮行幸とも重なる。
弓削皇子は額田王の心境を察し、詠ったのかもしれない。

額田王は早速、
古の 恋ふらむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし わが念へる如(万2-112)
と返している。

これは中国古文献にみる「蜀魂」故事伝説を基に
「古に恋ふる鳥かも」に対し「古に恋ふらむ鳥はホトトギス」と答え詠ったと
一般に解されている。

中臣朝臣大嶋の漢詩の
一編は「孤松に詠う」と題し、松に自己の心情を描いたもの。
一編は「山斎」と題し、
「、、、隠遁自然の生活に満ち足りており、いまさら
仙人隠者の境はいらない」と現況描写とも解するもののようである。

返事を受けた弓削皇子は
次に「苔(蘿)生す枝(苔のついた松の枝)」を額田王に贈っている。
蘿をサルオガセと解し、松の長寿の願いにサルオガセの特徴(白髪のイメージ)を合わせ、
贈ったものと一般に解されている。

しかし、弓削皇子がこれら二編の大嶋の漢詩を目にしておれば、
「苔(蘿)生す枝」を贈った可能性も少なからず考え得る。
贈答歌としたならば、
中臣朝臣大嶋になりかわり贈ったのかもしれない。

額田王はその贈り物に対し、

み吉野の 玉松が枝は はしきかも 君が御言を 持ちて通はく(万-113)

額田王最後の歌であるが、素晴らしい心情歌でもある。

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『小山田遺跡-2』において
「鏡女王の墓は鏡のように映りえるものがあるかのように
イメージがわいてくる」と記した。

上記(図-1)の粟原寺からの2本の線と2号墳、鏡女王の墓を結ぶ線の
不等辺三角形を描き(図-2・黒二点鎖線)、縮小し反転させると、
ほぼ舒明天皇陵域内の三つの陵墓の位置に重なることが解る(図-3)。

line0226-1.jpg
(図-2)
line0302.jpg
(図-3)

外鎌山(忍坂山)の西に鳥見山(トミ山)がある。南山麓に2号墳が位置する。

不等辺三角形を見つめていると、鳥の姿にも映る。
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『懐風藻(参-1)』「孤松を詠う」の中で、
「隠居悦笠軽」を「笠を脱して軽し」では難解とし、
「脱」を「悦」とし「笠の軽きを悦ぶ」と解している。(参5)

ふと、描いた、不等辺三角形が頭上に浮かぶ。

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粟原寺→鏡女王墓の線の延長を辿ると鏡作神社(田原本町)のある鏡作郷に至る。

さらに辿ると遠いとおい彼方にに行く、、。さて?

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(表-1・2)の(3-?)(5-?)(10-?)年代は推測のもと、記記載。

(図-1・2・3)地理院地図GSIMapsに加筆
(写-1)『大飛鳥展』チラシ 2011より加筆
(写-2)『日本の野生植物 木本1』平凡社 1981より加筆
(参-1)『飛鳥・白鳳の美術』日本美術全集 3 学習研究社 1989
(参-2)『日本書紀』『万葉集 1』日本古典文学大系 岩波書店
『額田王』身崎 壽 塙書房 1998
(参-3)『額田姫王』谷 馨 早稲田大学出版部 1966
(参-4)『続文化財学論集』
「飛鳥大嘗宮論-初期大嘗宮と酒船石遺跡」相原嘉之 2003
(参5)『懐風藻』小島憲之 日本古典文学大系69 1971
『懐風藻』江口孝夫 講談社 2013
. 
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3/6、表訂正。


タグ:小山田遺跡
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