Kのメモ MAR 5,2015 [店雑記・Kのメモ]
小山田遺跡-まとめ
趣くままに、イメージを描いていると小山田遺跡から
遠ざかっていく。
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遠離る要因がどこにあるのかと思い、
メモったものをまとめると共に新たなイメージを描く。
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(図-1)
小山田遺跡①の掘割遺構が
坂田尼寺(注-1)の伽藍方位や菖蒲池古墳⑨の基壇方位と類することを記した。
おそらくそれらのものと何かの関係があるものとイメージする。
小山田遺跡が舒明天皇の滑谷岡の初陵墓と推測されることから、
改葬されたとする押坂の舒明天皇陵とを結びラインⓐを描く。
線上には岩屋山古墳❿や欽明陵域、飛鳥寺跡⑧、山田寺跡⑦が位置する。
さらに舞谷古墳群2号墳⑤がほぼ線上に沿う位置にあることが解る。
この古墳の被葬者を短期に「赤穂(赤尾)に葬る」ことから
十市皇女の墓とする一説がある。
①には室生安山岩(榛原石)の板石が使用されており、
⑤でも石室の構築に使用されている。
そして、②⑦⑧でも使用されていることから
ⓐ線がなにか意識的なラインであったのではとイメージする。
Ⓚ線はⓄ点(酒船石遺跡)を基点とする斉明天皇百済遠征のラインであり、
額田王の歌が線上に位置するラインでもある。
その線上に①が位置し、Ⓞ延長「下り尾」下方に粟原寺跡⑥が位置する。
Ⓚ線上に①が位置するのは、熟田津・石湯行宮の行幸の
想いの重なりからではと推測する。
談山神社(多武峯寺)には⑥粟原寺の三重塔鑪盤伏鉢が所蔵されており、
伏鉢の陰刻銘文には
草壁皇子のために寺の伽藍を発願したとする中臣朝臣大嶋(注1)と
寺を起工したとする比売朝臣額田が記されている。
中臣朝臣大嶋は天武、持統朝に活躍した人物であり、『紀』にも多く記されいるが、
比売朝臣額田は全く見当たらなく疑問を持ち、
額田姫王(額田王)に置換え調べる。
想定ライン⑥⑤の線上には赤坂天王山古墳⑪が位置し、百済の地に至る。
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①②と百済大寺の❻を結ぶと
Ⓐ=Ⓐから①②が❻からほぼ等距離に位置することが解る。
①=②=❻舒明として結ばれる。
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押坂陵域、
舒明天皇陵②、大伴皇女の墓④、鏡女王の墓③の位置関係を調べると、
⑤③⑥を結び反転した相似形の位置であることが解る。
また、⑥から②、③を経た延長域を辿ると田原本町の鏡作郷に至り、
さらに⑥、③の延長を辿ると龍田郷を経て法隆寺西方、ほぼ藤ノ木古墳に至ることが解る。
これらの線域から鏡女王=鏡姫王ではと推測する。
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もうひとつ解ったことがある。
②⑤⑥の不等辺三角形が❷❺❻の大官大寺の位置にほぼ相似する。
(図-2)
(図-3)
もしかすると❷の地点辺りに天武朝の高市大寺(大官大寺)が
建立していたかもしれない。
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舒明天皇が建立を始めたとする百済大寺❻は皇極、斉明、と続き、
天智朝にほぼ完成したと推測されている。
壬申の乱後、勝利した大海人皇子は飛鳥浄御原宮に移り即位する。
そして、天武天皇2年(673)に造高市大寺司に2名を任命し、
新たな大官大寺(高市大寺)❷の計画がされたことが記されている。
一説には舒明天皇三十三回忌、母斉明天皇の十三回忌に合わせ、
その計画がなされたとも推測されている。
飛鳥京から藤原京に遷り、文武朝になり新たな大官大寺❺が建立される。
さらに時を経て藤原京から平城京に遷都し、大官大寺も大安寺として遷が、
①の北方に大安寺が位置する。
蘇我氏の氏寺であった飛鳥寺も天武2年に官寺となっており、
描いたラインの深層に官寺があることが解る。
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①掘割遺構の関係を「蘇我氏」と結びつける推測もある。
しかし、
このようなラインや形を描くなか、「蘇我氏」というイメージは湧いてこない。
ライン上に点在するものはほとんど言ってよいほど
非蘇我系、皇族系の流れと言っても過言ではない。
仮に①を蘇我氏のものに置き換えても繋がりを見ない。
このようなことから、小山田遺跡掘割遺構は皇族系に関わるもので
あると推測する。
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中臣朝臣大嶋と額田王の接点を追ってみると、
中臣朝臣大嶋が漢詩集『懐風藻』に二編の詩を載せていることを記し、
その一編「孤松を詠う」の「隠居脱笠軽」の「笠脱軽し」が
難解とされていることに気づき、松笠を調べる。
松笠は種子の成熟に2年を有するとあり、枝先には今年の雌花、1年枝根元には
昨年から成長した未熟な松笠、更に下には種子を放出し開いた松笠が付き、
放出後しばらくすると根元からはずれて地上に脱落するようである。
「笠脱軽し」は松笠の姿をユズリハの交譲のように
描いているようにも思えてくる。
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額田王と弓削皇子の贈答歌(万2-111・112・113)に
中臣朝臣大嶋のイメージを重ねてみる。
「弓絃葉(ユズリハ)の御井」は
大嘗祭の行われる大嘗宮「酒船石遺跡・湧水施設の井戸」と
推測した。
神祇伯(長官)として中臣朝臣大嶋は天神の寿詞を奏上している。
弓削皇子が額田王に贈った「蘿生す枝」は、
やはり「笠脱軽し」とのつながりをイメージする。
(写-2)
持統7年3月6日、吉野宮に行幸する。
7月11日直大二藤原中臣大嶋に賻物を賜う。(大嶋死去)
7月13日吉野宮から環幸する。
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⑤を十市皇女の墓と推測したが、
十市皇女が薨りし時、高市皇子が詠った歌(万2-158)のヤマブキの枝に
イメージを重ねてみる。
(写-1)
今年生の側枝は短く、花後脱落するようである。
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吉備池廃寺の調査から
百済大寺は解体され、高市大寺建立に再使用された可能性を記していてる。
中臣朝臣大嶋は百済大寺が解体されるのを見ていたと思われる。
それは脈々と続いた飛鳥京の変貌を感じていたのかもしれない。
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【補足1】
「歴史」の「史」の字源を調べると、
中と又に従い、又は右手の形。中は祝祷を納める器を木(Y形の枝)に著けた形。
これを手にもち、神に捧げて祭る形式の祭儀、史祭という。とある。(参-1)
中臣朝臣大嶋はこのようなものを持ち、神官の勤めに
就いていたのだろうかとイメージすると、
鏡が浮かび、鏡女王、比売額田との接点のようなものを感じる。
【補足2】
坂田寺は『多武峯略記』承安2年(1172)に多武峯寺の末寺、
『興福寺官務牒流』嘉吉元年(1441)興福寺(藤原氏の氏寺)末寺の記載があり、
粟原寺伏鉢は多武峯寺の所蔵でもあることは記した。
『飛鳥幻の寺、大官大寺の謎(参-2)』に
「木之本廃寺が高市大寺(天武朝大官大寺)であったとすれば、
藤原宮と並列しているそれとは別に、新たな大官大寺を造営したのは、なぜか」と
疑問を記している。
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【結び】
最後に②⑤⑥と❷❺❻の関係に至ったことを記した。
この線図(図-1・2・3)を形知るのは
Ⓚ線、ⓐ線を知り得なければならない。
それを知るのは、百済遠征を共にした
持統太上天皇と額田王でしかないと推測する。
小山田遺跡の掘割遺構がみつかり、Ⓚ線上に位置することから興味を持った。
多くは方墳の可能性の指摘から、被葬者と直接結びつけようと推測する。
仮に古墳であったからとしても、被葬者の確定には至らないケースが
ほとんどである。
天上からの視線で見つめることが飛鳥をみつめることであると
常に思っている。
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(図1・2・3)地理院GSIMapsに加筆
(参-1)『字統』白川 静 平凡社 2007より加筆
(写-1)『日本の野生植物 木本Ⅰ』平凡社 1991より
(写-1)『額田王』谷 馨 掲載写真 「万葉植物」小清水卓二
1967 紀伊国屋書店より加筆
(その他参考資料)
『日本書紀 下』日本古典文学大系 岩波書店 1993
『飛鳥幻の寺、大官大寺の謎』木下正史 角川書店 2005
タグ:小山田遺跡
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