Kのメモ MAR 10,2015 [店雑記・Kのメモ]
(図-1)
半球体と露
仏塔には相輪(そうりん)というものが屋頭に備わっています。
『小山田遺跡』のなかで記した粟原寺三重塔の伏鉢もその相輪の一部です。
相輪の解釈はインドのストゥーパが基になっているとされますが
目的は多くの説があり定かでないようです。
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『紀』崇峻天皇元年(588)に百済から飛鳥寺建立のための技術者が
渡来しています。
『ペルシア文化渡来考(参-1)』では、これらの技術者の名称を解し、
ペルシア系の仏教徒の人達であったことを詳しく記しています。
彼等はモデルや制作品を持ち、百済から送りこまれたと記していますが、
そのなか露盤博士に将徳白昧淳(しょうとくはくまいじゅん)という人物が
いたことが記されています。
白昧淳を中世ペルシア語からpaymiznē/paymuzēとし、
語はmiznē/muznē「露」にpay<pati-(Av.paiti-)を前椄した語と解し、
paiti-が「反対・対向」の観念を表すものと「同伴」を表すものの
二つの意味があるとし、
「反対・対向」に属するのは「patipa-(水流にさからう)」
「paityāpǝm(水流にさからって)」
「paiti.vīrah-(うなじ-胸の反対側にあるもの)
一方「同伴」に属するものは
「paiti-puƟra-(子らとともにするもの・子をもつもの)」
「paiti.vīra-(勇者らと共にいるもの・勇者をもつもの」と記しています。
これらを「paymiznē」に当てはめると
「露に向かい合っているもの」「露を帯びるもの」の二義を有し、
「もの」を「物」と解せば「天から降りる露に向いあって承けるもの」
「露盤」となると記しています。
また、「将徳」はostaādの対音(工匠・たくみ、師匠、博士)とし、
よって将徳白昧淳=露盤博士だと解しています。
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本来、露盤とは相輪底部に位置しますが、
昔は相輪も含み露盤と称したように思われ、解されているように、
「天から降りる露に向いあって承けるもの」かもしれません。
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瓦博士の一人、
昔麻帝彌(しゃくまたいみ)という技術者も同時に渡来しています。
昔麻帝彌をsāmān-tōmとし、
「sāmān(境界・果て)」-「tōm(種・卵)」と解し、
後肢は「種」や「卵」そのものをあらわすものではなく、
そのもののもつ「まるい形」を取意しているとみるべきだとし、
「軒丸瓦」のようなものか、と解しながら
難解であることも記しています。
瓦にとらわれず、何をつくる技術者なのか?、、とイメージしていると、
形状から宝珠や仏舎利容器、伏鉢をつくる技術者?とも思えたりしますが、
ストゥーパの円い部分をアンダと称し、漢語で覆鉢とも呼ばれることから、
やはり瓦葺博士だったかもしれません。
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粟原寺の伏鉢に陰刻された銘文には、
和銅八年四月 敬以進上於三重宝塔七科鑪盤矣
(和銅八年四月をもち、やっと三重塔七輪の露盤を進上できました)
仰願籍此功徳(この功徳をかりて、あおぎ願います)
(1)皇太子神霊速証旡閲上菩提果(皇太子の神霊が速やかに無上の菩提果をえますよう)
(2)願七世先霊共登彼岸(願わくは七世の先霊が共に彼岸に登れますように)
(3)願大嶋大夫必得仏果(願わくは大嶋大夫が必ず仏果をえますように)
(4)願及含識倶正覚(願わくはこころあるものが正覚を成せますように)
と、末に記されています。
この銘文を三重塔にコージュすると、
(1)は宝珠、(2)は七輪、(3)は伏鉢、(4)は露盤かも?と。
天武天皇7年(678)に談山神社(多武峯妙楽寺)に十三重塔が建立されたと
されています(説話とも、多武峯略記には記されていない)。
屋頭の相輪は七輪でもあり、粟原寺三重宝塔の七輪、
また、粟原寺の伏鉢も多武峯妙楽寺にあったことからも
つながりがみえてきますが、、
藤原不比等、中臣朝臣大嶋の関係などを推察すると、
おもしろいかもしれません。
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(参-1)『ペルシア文化渡来考』伊藤義教 岩波書店 1980より
(図-1) 相輪概要図
(写-1)『飛鳥』談山神社十三重塔 岩波写真文庫130 1954より加筆
(注-1)ブログ「栄山寺」に記載。
「十三重塔婆」国重要文化財。亭禄5年(1532)の再建。
寛永18年(1641)大修理。
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