Kのメモ MAR 18,2015 [店雑記・Kのメモ]
南都・線と三角形-2
修二会のなかで悔過行法がありますが、
悔過の初見は皇極天皇元年(642)に
雨乞いのために百済大寺で蘇我蝦夷、僧侶らにより
仏像を安置し香を焚き、経典を読誦し行われましたが成果なく、
天皇自ら、南淵の川上において悔過を行うと雨に恵まれたと
記されています。
四方悔過という行為により、雨乞いが叶ったようです。
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南淵の川上という場所は確定されていませんが、
水源を意識し行われたことは確かであり、
坂田尼寺より上流、稲淵川の水域だったと推測します。
(図-1)
その川域の川線を辿ると稲淵川の源流が竜在峠辺りで
Ⓢラインに至ることが解ります。
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稲淵川の下流、冬野川の合流地点近くに坂田尼寺跡があります。
天平勝宝時代にこの寺の師主だった尼信勝は
経典を内裏に進上したり、
東大寺大仏の東脇侍(観世音菩薩像)を献納したとされ、
そのことが修二会で読み上げられる過去帳にも見ることができます。
(写-1)
寺はその後、承安2年(1172)には多武峰の末寺となっており、
室町時代には興福寺末寺に至ってることが記されています。
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粟原寺をイメージしたときも影を落すのは
多武峰でした。
そして、お水取りを辿ってもⓈラインに沿い多武峰・談山神社が位置し、
影の重なりを感じてしまいます。
談山神社、妙樂寺の創建は天平20年(748)から延喜14年(794)の間ではないかと
記されており(参-1)、
実忠が修二会を創始したのが天平勝宝4年(752)とすると
なにか関係した見えない線を感じなくもありません。
【つづく】
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(図-1)地理院地図 GSI Mapsに加筆
(写-1)『お水取り』奈良国立博物館 2001より加筆
(参-1)『栄山寺』田村吉永 河原書店 1948
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