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Kのメモ MAR 26,2015 [店雑記・Kのメモ]


mark0316.jpg
南都・点と三角形-5

やっぱりと思う気持が沸き立ちます。
目と鼻の先とはこのようなことかもとしれないと思いつつ、
じっと覗きます。

Ⓢラインは新薬師寺をとらえ描かれます。

shinyakusiji0326.jpg
(図-1)



shinyakusigi0324.jpg
(図-2)
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2008年奈良教育大敷地内から新薬師寺の基壇とされるものが
発掘されました。
寺の最盛期は春日大社南方から教育大にかけ、
440m四方の境内を有したようです。

Ⓢラインはその基壇跡と現新薬師寺の間を辿ることが解りました。

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天平17年(745)聖武天皇は四年半の柴香楽宮から南都に戻ります。
(病気で戻ったのかもしれません。)

天平19年(747)光明皇后が聖武天皇の病気が治ることを願って
新薬師寺を建て、七仏薬師像を造ります。

天平勝宝4年(752)実忠が修二会を創始します。

天平勝宝8年(756)作成の『東大寺山界四至図』には
「新薬師寺堂」「香山堂」という名と位置が
記されています。

天平宝字6年(762)造香山薬師寺所が残存し、
造営が続いていたとされます。

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これらから考えられるのは、
(1)新薬師寺造営も視野に入れ、修二会(Ⓢライン)が描かれた。
(2)修二会(Ⓢライン)を知る上で新薬師寺が造営がされた。
(3)(Ⓢライン)を知る上で修二会が創始され、新薬師寺も造営された。
の三点です。

この地点での推察を深めれば、もう少し修二会の創始と新薬師寺造営の
関係が明らかになるかもしれません。

復元 幻の大寺院』などを参考にイメージを拡げれば、
楽しいかもしれません。

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いずれにしてもⓈラインは
「かの明神の箇所」の地点から二月堂に至り終点でないことが解ります。
先を辿ると新薬師寺の地点に至ることは
さらに先の世界が描かれている可能性が増します。

Ⓢラインは十一面観音を秘めるラインでありことは確かで、
新薬師寺建立により光明皇后も知り得ていたラインであることも推測できます。

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Ⓢラインを意識し設置したのかどうか解りませんが、
現新薬師寺に実忠の石塔があることは興味を惹きます。


《つづく》

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(図-1)(図-2)地理院GSI Mapsより加筆



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