Kのメモ MAR 30,2015 [店雑記・Kのメモ]
南都・線と三角形-7
コマ6は竜在峠です。
この地点は最初に描いたⓈラインの時に、
皇極天皇が四方悔過をした「南淵の川上」を潜ませる
地点であることを記しました。
天皇が自から雨乞いの行法を行ったのですが、
「南淵川上」の、どの地点なのか定かな説はありません。
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『飛鳥地名紀行(参-1)』には、地元の老人の話として
多武峯付近の冬野から東大寺の屋根が見えたことが記されています。
また、
「南淵川上」は現飛鳥川の上流に立地し、さらに上流は栢森・入谷で
水源地は龍在峠付近とし、
入谷は丹生谷とも考えられ、同地にある大仁保神社の
「仁保」は「丹生」と同義であることなども記しています。
このことは
若狭小浜の遠敷も当初は小丹生だったことが記されており、
入谷が丹生谷であった可能性の指摘(参-1)を合わせると、
かさなる要素が潜んでいる可能性があります。
参考になるかわかりませんが昭和10年頃、
辰砂(丹・しんしゃ)の多武峯鉱山があったことが他書に記されています。(参-2)
このようなことをベースにⓈラインのグレーゾーンの裾野を追ってみます。
(図-1)
源流の畑谷川を下ると入谷(写N)、栢森(かやのもり)に至ります。
栢森地点で畑谷川も含め3つの川が合流し稲淵川となります。
稲淵川を飛鳥に向って下って行くと綱1(写-綱1)があります。
さらに下ると
飛鳥川上坐宇須多伎比売神社(写U-1)があります。
この地点をはさみ、この地区では「お綱掛け」という
年中行事の一つが行われています。
行事は、
(綱1)と、さらに下った(綱2)の川地点に勧請綱を掛け渡します。
綱の中央には陰物、陽物と称される
藁で造ったオブジェ(綱1-A・1-B、綱2-A・2-B)が取付けられます。
毎年造られるオブジェは、
年や、造る人達により、形も変化することがAとBからもわかりますすが、
綱2のオブジェは昔は巨大なものだったとも記されています。(参-3)
おもしろいのは、
このオブジェが修二会の行法で使用される鐃(にょう1-C・2-C)に
よく似ているように感じることです。
綱1のオブジェは
藁で蜜柑を包みこみ造りますが、
勧請に用いられる咒師鈴(しゅしれい・1-C)のイメージと重なります。
綱2のオブジェは
お水取りに使われる堂司鈴(どうつかされい・2-C)の
柄部分の棯紙巻込みと重なるものを感じます。
綱2のオブジェの縛る紐は12本(閏年13本)ともされ、
堂司鈴の棯紙巻込みをみると似た巻き数をみることができます。
鐃の上部、三鈷の脇鈷部分はお綱掛けの綱部分とイメージとすると、
修二会の原形のようなものへとイメージが膨らみます。
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修二会は春分、正月を迎える行法でもあることは
天平勝宝4年(752)の春分日を2月28日頃とすることからも解るとされ、
このお綱掛けも旧正月の十一日に行われる迎春の行事であり、
この行事を終えると農耕が始まります。
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行事の当日に納められる供え物を調べると、
綱1では供え物の中心的なひとつに
網1は1.5mほどの竹の先を四割りし、先を四方に張りださせ、
渡し竹に4個の蜜柑をさしたものを口組みし(蜜柑は計16個)、
川端の福石の前に建て置き供えます。( 1-D )
一方、網2では1mほどの割竹の先に、
蜜柑を刺したもの12本(閏年は13本)を土橋に並べ立てるようです。(2-D )
近年は数を増やしているようです。
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修二会には達陀(だったん修二会には達陀(だったん)という行法があります。
都率天から天下ったとする練行衆が水や火を撒き、法具を投出し、
法螺貝を吹く中、練行衆の一人が大松明(2-E)を持ち本尊壇を担ぎまわります。
達陀については多くの説があり定説がないとし、六説を
記されています。(参-4)
1.タプタ説-焼き尽くされるのダッタからダッタンに変化した説。
2.韃靼(だったん)の踊り説-エキゾチックな衣裳や行法からの連想説。
3.ダダ-民族的呪法のダダからの共通性、ダダからダッタン説。
4.追儺(ついな) 説-大晦日に悪鬼を払う行事の追儺からの説。
5.天人踊り説-縁起絵巻の伝説から道場に舞い降りたとする天人の踊り説。
6.イラン起源説については『ペルシア渡来考(参-5)』に、
「達陀」にもイランの要素は否定することは出来ないとし、
熔鉱の通過の清めから「ˡbē widārēnd」を「widardan」(通過する、渡る)と解し、
「人々は通過する」(widerēnd)としてます。
そして「widardan」を象徴的に漢字表記すれば
wiを外し「dardan」「達陀」を表すことが出来、
「達陀」は「(火を通過する、(火)の渡り」の行となると記しています。
網2で2-Dを土橋に並べ立てることは、蜜柑のオレンジからも火をイメージでき、
火の渡りを表現しているものと推測でき、
イラン起源説と重なるものを感じます。
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お水取りの説話には、
白黒二羽の鵜が岩から出てきて木にとまったとあります。
綱1では川端に大きな福石があり、そこで行事が行われます。
一方、綱2の綱は川をはさんで2本の大木がありそれに掛け渡します。
昔は橿と松だったとも記されています。(参-3)
(図-2)
説話の情景は『二月堂縁起』の絵巻でも描かれています。
白い花をつけた木に白い鵜が止まり、
黒い鵜は岩から出たところで香水が湧き出ています。
木、岩、そして水とイメージすれば、
観音浄土パノラマの基本要素を見る感じでもあります。
綱-1、綱-2にも福石(岩)、大木、そして川(水)があり、
絵巻にコラージュされる観音の世界へとイメージが膨らみます。
鵜は採食潜水したあと羽毛に防水性がなく、ずぶ濡れの状態で浮上し、
飛び立つ前に濡れた羽毛を乾かすために太陽の光のなかに立つと
記されています。(参-6)
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ただ、お綱掛けの地点では鵜の姿を見つけることができません。
鵜は他の海鳥とはちがい、沢山の卵を生む能力を持っており、
必要とあれば繁殖期後期にも再産卵するという多産の特徴が記されています。(参-6)
このようなことが雌綱、雄綱、陰陽物として
土着信仰のなかで変化していった可能性があるかもしれませんが、
気になることろでもあります。
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興味あるのは、
U1地点の飛鳥川上坐宇須多伎比売神社の宇須多伎比売です。
沿革がもうひとつはっきりしなく不明の部分が多くありますが、
神社の背は宮山とされ、
土地の人々は「宇佐神サン」などと称しおり、
『飛鳥古跡考』に
「宇佐ノ宮下なる川中ニ少しき淵あり。
底ニ駒の足跡あり。皇極天皇請雨の所にや」と記されており、
神社下の淵を「飛鳥川上」とする説もあります。
神社では明治初年まで
雨乞いの「なもで踊り」を「ほんなもで」と称し行われていたとされ、
後、内宮(写U-2・旧談山神社地、南淵請安伝承の地)で
「かりなもで」が行われていたと記されています。
踊りは、中心に大太鼓と青年6人、
周囲を子供がとり巻き、さらに外周を大勢の男子がとり巻いて踊るとされ、
一番つゆはらいから始まり、五番までありますが、
三番こがえりで、
奈良の都のさらすぬの 愛しとのごの裃の型はなあに 型はなあに
梅菊八重菊桜花 天にはむら雲 夜這星
田舎で流行る 帆掛け舟 漕ぎおしょやれ(漕ぎ押しやれの意)
若狭の小浜へ 漕ぎおしょ みんだあんぶ
と唄われます。(参-3)
南都と日本海文化の入口であった若狭とは、
密接な関係であったことは解りますが、
どうして
この唄が明日香の南淵で伝承されてきたのかと考えると、
小浜に通じる水のラインが南淵にもあったとも推測できるのです。
実忠がインドの事情にも明るい、ペルシア系の人物であり、
測量、土木、建築の技量もあったと推測できることから、
もう少しイメージを描いてみることにします。
《つづく》
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(参-1)『飛鳥地名紀行』池田末則 ファラオ企画 1990
(参-2)『技術と民俗』「大和の水銀」日本民俗文化大系13 小学館 1985
(参-3)『明日香村史 上』明日香村 1974
(参-4)『東大寺お水取り』佐藤道子 朝日新聞社 2009
(参-5)『ペルシア文化渡来考』伊藤義教 筑摩書房 2001
(参-6)『世界動物百科』7 平凡社 1986
(図-1)地理院GSI Mapsより加筆
(図-2)『お水取り』奈良国立博物館 2001より加筆
(写真)
(綱1-B)『飛鳥』毎日グラフ別冊 毎日新聞社 1986より加筆
(網2-B)『飛鳥史疑 浪漫飛鳥』新人物往来社 1993より加筆
(1-C・2-C)『お水取り』奈良国立博物館 2001より加筆
(U-2)『明日香村史 上』明日香村 1974より加筆
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