Kのメモ Apr 26,2011 [店雑記・Kのメモ]
額田王-線上のゲシュタルト6
宮
額田王は皇極天皇時代より宮廷に仕えていたとされています。
宮廷、宮の流れを見ていくと、
皇極時代は小墾田宮から飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)。
そして乙巳の変を経て、孝徳天皇は難波に遷都し大化の改新が行われます。
孝徳天皇は難波宮を拡張し難波豊崎長柄宮を造営しますが、
中大兄皇子らは再び飛鳥の飛鳥川辺行宮(飛鳥稲渕宮殿跡・比定地)に戻ります。
孝徳天皇崩御後、
再び即位した斉明天皇は飛鳥板葺宮(焼亡)、飛鳥川原宮、後飛鳥岡本宮、と移りかわります。
斎明天皇崩御、白村江の敗戦後、
天智時代は近江に近江大津宮を遷都し造営します。
壬申の乱後、
天武天皇は宮を再び飛鳥御浄原宮として飛鳥に造営します。
その後、新たな京が計画され、天武、持統時代に藤原京を造営、遷都します。
これらの宮の位置を望むと額田王の「ココロの地図」に近づくかもしれません。
飛鳥の宮のいくつかは
天武朝に造営された「飛鳥御浄原宮(あすかきよみはらのみや)」の下層にほぼ位置しています。
舒明時代の「飛鳥岡本宮」、皇極時代の「飛鳥板葺宮」、斉明、天智時代の「後飛鳥岡本宮」です。
推古朝の小墾田宮は雷丘近辺にあったとされ、
また、難波長柄豊崎宮から飛鳥に戻った飛鳥川辺行宮は
飛鳥稲渕宮殿跡が比定地とされています。
(図1)
(図1)の赤丸が額田王が仕えていた所とイメージし飛鳥の宮地を覗くと、
飛鳥稲渕宮殿跡以外、不思議とK線,T線に位置しています。
夏恵子が「不思議だね。額田王の見えるところと重なるね」といいますが
「当然、宮廷に仕えていたんだから」と。
なぜか、
額田王が巫女や采女的といわれている姿が線上の世界からもうっすらとイメージされそうです。
秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の京の假盧し思ほゆ(1-7)
(大意)
秋の野の草を刈って屋根にふいて宿っていた、
あの宇治のみやこの仮盧(仮の住まい)がなつかしく思い出される。
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(図1)『電子国土ポータル』に加筆
(1-7)
(大意)
『万葉集 1』 日本古典文学大系 岩波書店 1957 より『飛鳥迷宮』 高田和広 2009 より抜粋
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