Kのメモ Apr 28,2011 [店雑記・Kのメモ]
額田王-線上のゲシュタルト7
兎道乃宮子(うじのみやこ)
金野乃美草刈葺屋杼礼里之兎道乃宮子能借五百磯所念
秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の京の假盧し思ほゆ(1-7)
(大意)
秋の野の草を刈って屋根にふいて宿っていた、
あの宇治のみやこの仮盧(仮の住まい)がなつかしく思い出される。
思い出の場所の兎道乃宮子は「宇治の仮宮」でしょうか。
この地を線上に覗くと、
(図1)
T線上に耳成山が位置しますがその下に
横大路(注1・点線)との接点(F)から垂線(赤太点線)を描くと、
藤原宮大極殿の南大門のサイドで発掘された地鎮祭具の場所を示すことを記しました。
その垂線を南に延長すると檜隈大内陵(ひのくまのおおうちりょう・天武持統陵)に至ることは
岸俊男さんの
また北に延長すると天智天皇山科陵に至ることもすでに指摘され知られています。
天智天皇山科陵
兎道乃宮子は
おそらく朝日山ちかく、宇治川、宇治神社に面したところに
「宇治の仮宮」のイメージがふくらみます(赤丸)。
とすると、
皇極時代から斉明時代と推測されてる作歌年代から
藤原宮の中軸線、つまり垂線は天武、持統時代より以前から認識があったのでは。
「また、ふしぎなことが見つかったね」と、夏恵子が言います。
「垂線は飛鳥京の延長、T線からの延長」と答えると、
「三本の線と垂線は額田王が描いたのかもしれないね?」とたずねるので
「そうかもしれない、かもわからない」
「隠れた道があったのかもね」と。
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(注1)横大路は古代から、難波、伊勢と結ぶ道としてあったようで、
大和から西へは二上山の南、竹内峠、または北の穴虫峠を越える大坂越を経て
河内の丹比道につながり難波へ。東へは現、榛原町萩原の墨坂を越えて伊賀、伊勢に通じたようです。
(図1)『電子国土ポータル』に加筆
(1-7)
(大意)
『万葉集 1』 日本古典文学大系 岩波書店 1957 より2011-04-28 06:56
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