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Kのメモ OCT 31,2011 [店雑記・Kのメモ]


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シガミついて

獅噛(しがみ)から、ついイメージを追いたくなりました。


私が「シガミつかれた、つかれた」と3階に住むFさんにいうと
Fさんが「シガミついたのでしょ」といいます。



そして、古代飛鳥へ。



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(写1)

獅子はライオン。

飛鳥人はおそらくその姿を目にしたことはなく、

渡来人のイメージが形として表現されたものでしょうか。


獅噛文は8世紀以後の仏教彫刻、天部、神将像にも多くみられます。

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(写2)

これらの獅噛文については
たなかしげひささんが『日本の仏教彫刻中の獅噛みとメドゥーサの源流』(参1)
たのしく詳しく記されています。

ただ8世紀以前、飛鳥時代の獅子の源流については記されておらず、
私なりにメージを膨らませたくなりました。


川原寺裏山遺跡より発掘された寺の焼失遺品、
塑像のなかに「獅噛(写3)」と称される片がありました。

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(写3)

正倉院の宝物のなかにも獅子が描かれたり、造形された遺品がたくさんありますが
南倉の伎楽面の一品に獅子面(写4)があります。

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(写4)

これらの獅子の表情を追うと
目の部分のイメージにペルシア、ぺルセポリスの王座殿の獅子(写5)に
重なるものがあります。


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(写5)



焼失した山田寺の石段側石(写6)にも獅子がレリーフされていたとされています。

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(写6)

これも柱頭の獅子の坐像のスタイルに重なるものを感じてしまいます。


やっぱり、ペルシアじゃないの」と調べているうち、

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天武、持統陵(檜隈大内陵)の内陣扉の装飾金具も
「、、扉の金物六、内小(三寸五分許り)、大二(四寸許り、皆金なり)。
己上の形蓮花の返花の如し。古布(コブ)の形は獅子なり、、」と、
盗掘者の取り調べの記録『阿不幾乃山陵記』に
獅子をデザインしたものであったことが記されています。

..............................

そして、
コブ状の獅子、やっぱり、、」と、
明日香、祝戸にある「マラ石(写6)」にイメージがはせるのです。


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(写7)


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(写8-1)

以前に「マラ石」は決してチンチンではなく、
ペルシアの「石のライオン」をイメージして制作したものではないの?、と
推測し記しました(注1)。

とっておきの補足資料。
松本清張さんの『ペルセポリスから飛鳥』の中に
ダレイオス一世のペルセポリス宮殿の遺跡に点在する石造物で
獅子の横に未完成の獅子の石造物が写っています(写8-2)

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(写8-2)

「マラ石」のように縁があり、凸状に面取りしているのがはっきり解ります。





さてさて、

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(写9)

飛鳥、謎の石造物のひとつ、

飛鳥寺の東南、飛鳥川岸に2.5メートル大の石像、「ミロク石(写9)」があります。
地蔵のような形から今は雨をしのぐ堂宇(どうう)に安置され、
土地の人々から下の病気が治るとし信仰をあつめているようです。

もとは飛鳥川の堰(せき)に使用されたものではないか?とも推測されています。


堰は用水を取り入れるためにせき止めたり、調節したりするための構造物。

柵(さく)を「シガラミ」ともいい、
用水をせき止めるため、杭を打ち並べ、それに竹や木を渡したもの、とあります。


柵(さく)の金文の図象(図1)に牲獣を加えたものがあるようです(参1)。


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(図1)

(イ)中心にある牲獣の図象からミロク像ではなく、獣の形をイメージしてしまいます。

そして、「マラ石」と、どことなく重なるイメージへと膨らむのです。

また、天部、神将像の腹獅噛文にもイメージが重なります。


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(写10)


(ロ)の図象からは鴟尾(シビ・写10)の形をイメージします。

屋根の棟端を飾る瓦や鴟尾、鯱の本来の役割は
棟の両端からの雨水を防ぐためため、とも記されています(注2)。

水をせき止める、防ぐ柵のイメージが屋根に発展したのかもしれません。

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(写11)

鴟尾の原形を追うとこれもペルシアの世界へと馳せます。

ペルシア
紀元前5世紀、ダレイオス一世のスーサ宮殿の壁画に描かれている(ルーブル美術館蔵)
人頭ライオンの翼(写11)にイメージがかさなるのです。


.......................................

日本では
ライオン(獅子)や獣の形は邪気や悪魔を払い、防ぐ形として

鬼瓦、獅子舞、狛犬、、など大衆の目にするところへと
広がっていったのでしょうか。

獅噛のイメージの世界はつきません。



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(写1) 『ウィキペディア日本語版』より加筆
(写2) 『東大寺 法華堂の乾漆像』 奈良の寺15 町田甲一 入江泰吉 渡辺義雄 岩波書店 1975
持国天像より加筆
(写3) 『飛鳥の塼仏と塑像』 奈良国立博物館 1976 より加筆
(写4) 『原色日本の美術 4』 小学館 1968 より加筆
(参1) 『仏教藝術』 91号 毎日新聞社 1973
「日本の仏教彫刻中の獅噛みとメドゥーサの源流」 たなかしげひさ
(写5) 『ペルシアの遺宝』 解説 林良一 写真 川並萬里 新人物往来社 1978 より加筆
(写6) 『飛鳥と国分寺』 坪井清足 岩波書店 1985 より加筆
(写7) 注意-写真を左右反転しています。
(写8-1)(写11)(注1) 『大帝国ペルシア』 編集主幹 吉村作治 ニュートンプレス 1999 より加筆
「石のライオン」
紀元前七世紀にイランのスーサ高原を域にアケメネス朝はエジプトから
インダス川まで領域を広げ巨大な帝国を築きますが、
アレキサンダーの東征で滅亡(前660)します。
その後、ペルシア系のセレウコス朝シリア王国(前305~前64)が樹立、
アケメネス朝時代の文化が再花します。
その文化石造遺物にアレキサンダーが忠臣ヘファイスティオンを
讃えて造らせた墓碑と考えられているものです。
(写8-2) 『ペルセポリスから飛鳥へ』 松本清張 ニッポン放送出版協会 1979 より加筆
(図1)『字統』 白川静 平凡社 200 より加筆
(写10)(注2) 『和瓦のはなし』 山田洋一 監修 藤原勉 渡辺宏 著 鹿島出版会 1990 
四天王寺の鴟尾(四天王寺宝物館)より加筆




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