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Kのメモ JAN 31,2015 [店雑記・Kのメモ]


suberi0218.jpg
小山田遺跡-1

先日、明日香の小山田遺跡から50mをこえる貼石の掘割遺構が
見つかったことが発表された。

小山田遺跡phot3.jpg
(写-1)

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明日香に行けば前の道はいつも通っているところ。
 道をはさんで近くにコンビニができている。

発掘調査した橿考研(橿原考古学研究所)は、方墳の可能性と年代から、
舒明天皇の改葬前の滑谷岡(なめはさまのおか)の古墳跡ではないか、と
推測されている。

当然、他の推測もあり古墳とした場合、蘇我蝦夷が生前造ったとされる
雙墓(ならびのはか)の大陵では、との推測もある。

また、古墳以外のものかも、とも。

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ニュースで知った後、
さっそく明日香を中心とする広域地図をひろげ、
遺跡ポイントと舒明天皇陵(桜井市忍阪・押坂陵)のポイントを結び
直定規を置いてみた。

map0120psd.jpg

定規に沿い覗き込んでいると、おもしろそうなので、
国土院の電子地図に描いてみた。

koyamada0131.jpg

山田寺、飛鳥寺の寺域を経て、梅山古墳(欽明天皇陵)の堀脇を経て、岩屋山古墳に至る。

そしてほぼ横一列(東西)に菖蒲池古墳、川原寺跡、飛鳥宮跡と並ぶ線がうかんでくる。

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舒明天皇13年(641)に山田寺の造成工事が始まっている。

舒明天皇は13年十月に崩御し、皇極天皇元年(642)十二月に滑谷岡に埋葬されている。
そして、皇極天皇2年(643)九月に押坂内陵に改葬される。
同年山田寺も金堂を建立している。

改葬時、この前の山田道を通ったことがうかんでくる。

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舒明天皇は当初岡本宮(1)を営なみ、火災後、田中宮に遷っている。

岡本宮は飛鳥岡(6)の傍にあったとされ、
飛鳥京跡の重なる遺構発掘調査から一期遺構では、とも推測されている。(注-1)

田中宮(2)は現橿原市田中町近辺にあったのでは、とも推測されている。(注-2)

最後に遷り、崩御された百済大宮は、
近年発掘された吉備池廃寺が百済大寺の可能性から、
同じ百済川の側(ほとり)と『紀』に記されており、
吉備池廃寺付近と推測されている。(注-2)

ただ、橿原市高殿町(3)に小字「東百済」「百済」「西百済」の地名があり、
側溝の流れが「百済川」と言われたことなどから、
以前和田萃氏がその付近を推測されたことも記されている。(注-1)


さらに北の方には奈良時代の官寺とする大安寺(4)がある。

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さてさて、小山田遺跡の掘割遺構は舒明天皇の滑谷岡陵なのか?

katu0129.jpg

「滑」は「水」と「骨」
なめらか、すべる、みだれるの意がある。

現地説明会の紙面の写真背部に山が写っている。
おそらく、標高209mの貝吹山と思われるが
そこからすべり下りたところのようにもみえる。

菖蒲池古墳のあるところの地形は貝吹山方から伸びる二筋の尾根状の谷間をカットして
造られているよう。

谷0131-1.jpg
「谷」の字源を調べるとおもしろい。

「口」を「あな」と解し、水源が「あな」から出るたにの形。
また、
左右から山がせまり、谷口が低く狭まった形、とも。

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いずれにしろ、尾根筋を「ハ」の形で表現している。

改葬された舒明天皇の押坂内陵は天皇陵とされる八角墳の最初でもある。

篆文の「谷」の字形と「八」の字形はよく似ている。

ふたつの「ハ」をつなげたようにもみえる。
hachi0131.jpg
豪族は形や大きさで権力を誇示しようとした。蘇我氏もかわらない。
八角墳の由来は仏教の八角堂や天子の祭壇の八角形などの影響とも言われているが、
みだれたそれらの古墳形状から分別するため造られたのかもしれない。

額田王を追って押坂陵に行った時のことを思い出す。
押坂内陵の脇を清らかな水が流れていた。

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小山田遺跡の道をはさみ右手に農地が広がる(5)。
昔この辺りは耕作時によく牛が滑り込んだことを聞いた事がある。

難読の字例として「滑谷」を「ぬかやり」とも記されている。


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舒明天皇が滑谷岡に葬された年、
蘇我蝦夷は祖廟を葛城の高宮に立て、八佾(やつら)の舞いをしたこと、
また、雙墓(大陵は蘇我蝦夷・小陵は蘇我入鹿)を今木に造ったことが記されている。

その雙墓を宮ケ原1・2号墳と推測する説もある。
宮ケ原1・2号墳は橿原市五条野町、小山田遺跡の東西線上に近接する。
今は開発が進み形はない。

さらに東西線を延長すると、葛城山を越え河南町の金山古墳に至る。
『紀』の注釈で「雙墓」を瓢形墳?源流は新羅にあるらしいとし、
例としてこの古墳を記している。

いつもスーパーに買い物に行くとき横を通り過ぎるが、
前方東に二上山がみえるのでたびたびその形に重ねたりしていたことがある。

.....

線上にイメージを求めると楽しさが深まっていく。
イメージのすき間を探すのもおもしろい。

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発掘された遺構の近くに私のすきな亀石がある。

しばらく会ってないけれど、亀石は知っているかもしれない。


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(写-1)現地説明会資料(橿原考古学研究所)写真より加筆
(注-1)『最近の調査から見た飛鳥京』林部 均 2006 講演資料より
(注-1)『飛鳥』和田萃 岩波書店 2003 より
『紀』日本書紀 岩波書店 1993より






タグ:小山田遺跡
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