Kのメモ APR 9,2015 [店雑記・Kのメモ]
南都・線と三角形-10
コマ7は吉野です。
吉野川を挟み妹山、背山が位置する地点です。
(写-1)
蛇行し岩場が多い吉野宮があったとする宮滝の地とは変わり、
川幅も広がり視野も広角的に見渡すことができます。
今も吉野町の中心部を形成していますが、
吉野山への参道の出入口として、
多くの人々が行交ったところでもあります。
『菅笠日記』に本居宣長がこの地を筏の渡しで渡りながら、
船頭に「妹山はどれか」と尋ねると、
「川上の方に流れをへだてて、向い合って間近に見える山で、
東側を妹山、西の方を背山」と教えてくれたが
本当にこの名を持つ山は紀伊国にあって疑うべきもないのに、あの
「流れては妹背の山の中におつる、吉野の川のよしや世の中」に思いが
溺れてしまって、きっとここだと決めてしまったのは、
世の風流人のしたことだろう。と記しているところです。
同じ川(吉野川の下流紀ノ川)を挟んだ紀伊の妹山、背山に対し
吉野の妹山、背山はうつくしい独立峰のような小山からなり、
親しまれてきたことは、上記の歌からもわかります。
とくに妹山の樹叢は国の天然記念物指定区でもあり、
古代より大名持の住む山として崇敬され、
忌み山信仰の神の山だったとも記されています。
また、観音浄土には光明の池があるように、
山の上には池がある、地が生きており樹々も毎日様子を変える、など
暖地系の植物生態を有する神秘な山としても伝承されてきました。
樹叢の中に除福が探し求めたとする不老長寿のテンダイウヤクも自生しており、
神武天皇が八咫烏に導かれ大和を行軍した先々にも自生が見られことは
不思議さを増しますが、
行軍途中での「梁をつくり魚をとっていた鵜飼の先祖」
「光る井戸から出てきた吉野の先祖」「岩を押し分けて出てきた吉野国栖の先祖」
との出合いに目を向けると、
遠敷明神が遅刻したお詫びに、
二羽の鵜が岩から出てきて、香水を湧き出させ、
その湧水に光明あるとすることと重なりをイメージ出来ます。
行軍は宇陀に至りますが、「漆姫伝説」が宇陀の里話であることを加えると、
うっすらとⓈラインは吉野も意識した感がしてきます。
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漢詩集『懐風藻』には
吉野を神仙境とイメージし多くの詩が綴られています。
その中に藤原不比等が綴った「吉野に遊ぶ」という一首があります。
(現代訳-1)
吉野のこの絶勝の景を賞でて文をつづり、
蔦かづらの茂みのなかで酒宴の用意をさせる。
昔この地で漆姫(しつき)が鶴に乗って天上に去り、
柘枝姫(つげひめ)は魚と化し男に近づき情を通じた。
岩の上にもやが立ちこめ、翠はおぼろに岸の辺りは日がさして紅に映えている。
この地は天帝のおられる崑崙に近く、松に吹く風を心ゆくばかり鑑賞している。
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吉野を綴った他六首にも「柘姫(つみひめ)」が語られていますが、
漆姫が鶴に乗って天上に去り、柘姫は魚と化し男に近づき情を通じたとする
二つの伝説話を記しているのは不比等のみで、
どうして記したのかと興味を持ちます。
『日本霊異記』の漆姫(しつき)の話からは鶴に乗ってという具体的な表現はなく、
そのことについては昇天することを仙人の昇天になぞられて、
控鶴という中国的な表現を用いたと記されています。(注-1)
また柘姫伝説も全貌を伝えるものは残ってなく、
多くは古文献に記された概要的な表現からの推測により、
吉野川を柘の枝が流れて来て梁にかかり、美稲(ウマシネ)という男が拾い持ち帰り、
それが女性となって、美稲と同棲し、後に別れて天に飛び去ったという筋のようです。
柘姫はどのような女性であったのか、その変化を探ると、
「柘(しつ)」は「山桑・野桑」ですが、
柘の枝が流れてきたことから、
字体を横に寝かせると、不思議と魚のようなイメージが得られます。
「柘姫」からは木、石、水という観音の姿が見え、
さらに水の神アナーヒターへと惹かれるのです。
また、美稲がつくっていた梁(やな)は、
川に杭を打ちならべ、水をせき止めて魚を取る設備ですが、
魚を女神とするなら勧請綱とも重なるイメージがあります。
一方、
漆姫が鶴に乗って天上に去ったのは中国的表現としていますが、
白鳥の姿が描かれている羽衣伝説で一番古いとされるものは
天女が白鳥の姿で水浴びをしていることが描かれている
『近江風土記』逸文の余呉湖(よごこ)の羽衣伝説です。
これらからイメージを膨らませると、
不比等が綴った「吉野に遊ぶ」には、近江の天女のイメージと、
水の神という世界観があり、
ふたつの説話のイメージを重ねたようにも推測できます。
『懐風藻』の成立年代は天平勝平三年(751)ともされ、実忠の創始の「修二会」が
天平勝平四年(752)とすることからも、実忠はこの吉野の地点のイメージとして
不比等の漢詩があった可能性も推測できます。
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このような推測から、
イランのホロスコープに記される
水の神アナーヒターがこの吉野にイメージされるか覗くと、
吉野川の源流の方位と遷移位・魚座・金星の座に
重なりをみることができます。
(図-1)
きっと、
柘の枝は清水の流れに乗り源流から流れて来たのではないでしょうか。
《つづく》
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(写-1)『憧憬 古代史の吉野』吉野町 1992より加筆
(現代訳-1)『懐風藻』江口孝夫 講談社 2013
(コマ7)(図-1)地理院GSI Mapsより加筆
(参考文献)
『懐風藻』日本古典文学大系69 岩波書店 1971
『羽衣竹取の説話』静岡新聞社 2000
『浦島子伝』重松明久 現代思想社 1981
『奈良県の地名』日本歴史地名大系 1981
『吉野町史』テンダイウヤク 吉野町 1972
(柘枝姫伝説-大意)
「柘枝姫伝説」は詳細はわかりませんが大意は、
昔、吉野に美稲(うましね・味稲とも書く)という人物がいて、彼は吉野川で梁をつくり、
鮎とりをしていた。
ある時、流れてきた柘の枝が梁にかかり、その枝を家に持ち帰り置いておくと、
美しい女性に変身した。
彼はその女性といっしょになり、長く暮したが、
あるとき、女性は常世の国に帰って行った。
(漆姫伝説-大意)
詳細はわかりませんが、多くはこの記述を大意としています。
大和国宇太の郡漆部の里に風流な女がいた。漆部造麿の妻であった。
長年の間風流な行いをたしなみ、生活を送っていた。
七人の子供を生み大変貧しくて食物もなく、子供を養育することもできず、
着る物もないので藤の皮をつぎ合わせて、
毎日水をあびて身をきよめてから、そのつづれを着た。
いつも野原に出ては菜をつみ、家にいるときは家をきれいにすることを心がけた。
菜をどなべに盛り上げ、きちんとすわって微笑を浮かべ、
柔らかく物をいい、うやうやしい態度で食べ、
常にこうしたことを心がけていた。
その心がけは天上からきた人のようであった。
さて孝徳天皇の白雉五年(654)この風流な行いに仙人が感動し、
女は春の野原で菜をつみ、仙人の草を食べて天に飛んだ。
これこそ仏法を修めたわけではないが、
風流な行いを心がけたので仙人になる薬がそれに応じて手にはいったのである。
精進女問経に
「俗人の家に住んでいても、心を正しくして庭を掃けば五つの孝徳を得る」といっているのは、
これをいうのである。
(現代訳『日本霊異記』原田敏明 高橋 貢訳 平凡社 2010より)
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