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Kのメモ APR 17,2015 [店雑記・Kのメモ]


mark0316.jpg
南都・線と三角形-11

コマ8・9は那智です。

nachi0414.jpg

やっと近江小浜から南都を経て、南紀那智に至ります。
ラインを当初描いたとき、南紀那智にいたることはわかりましたが、
もう少し幅をもたせ、6本のラインを描きました。

那智には16歳の時、一度行ったことがあります。
夏休みに一週間ほどの行程で、南紀一周の旅をしたのですが、
短いトンネルが続き汽車の煙りを感じながら、
海岸沿いを移動しました。
岩立った海辺に流れる南の風と潮の香りを感じたことが
おぼろげに残っています。

那智大滝には駅からバスで登り、滝の前で写真を撮りましたが、
当時はモロクロの時代でした。

そのモロクロの滝とシンクロさせ、イメージが
描けたらと思うのですが、、
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光ケ峯
かすかな記憶をたぐりながら、ラインを見つめていると、
ラインが那智山の一角、光ケ峯近くを辿っていることがわかります。

Mnachisan0417.jpg

那智山は烏帽子山、光ケ峯、妙法山にかこまれた範囲一体を
那智山と称するとし、山には四十八滝があり、
高さ133m、幅13m、滝壷の深さ10mという一の滝(大滝)が
象徴的な存在感を表しています。
大滝の東山上には那智原生林があり、暖地系樹叢と針葉樹の混成林で被われており、
大滝とともに国の指定や世界遺産の登録がなされています。

光ケ峯は680mほどの山ですが、
最勝峯(さいしょうのみね)、妙法山とともに那智三峯の一つとし、
第一峯とも記されています。
また、戦国時代末期の『熊野山略記』には、
頂上に池があり、大乗経を池に奉納する山伏修行が
あったことが記されており、
熊野那智大社草創の一説に、神武天皇が行軍のおり、
熊野灘から山々を眺めると光が射す峯があることに驚き、
その光を求めて歩くうちに那智の滝を見つけ、
神々しさに感銘し、神として祀ったともされています。

飛滝神社境内に、光が峯の方向を示す遙拝石があり、
現在もその石をとおして光が峯を遙拝しているようです。

これら、第一峯とすることや、頂上に池があったこと、光明の導きなどから、
古代から光ケ峯が那智山にとって大切な山であったことがイメージできます。


Mnachimandara0411.jpg
(図-1)

熊野那智曼荼羅図
室町時代に描かれた熊野那智曼荼羅図があります。

よくみると、上部大滝の左に雲に乗ってる日輪があり、
その下に鳥居、真ん中に立樹、下に岩石があるのがわかります。
飛滝神社(ひろうじんじゃ)を描いていると思われますが、
雲に乗った日輪は西方に位置する「光ケ峯」から訪れたようにもイメージできます。

また、那智大社や青岸渡寺(せいがんとじ)の賑わいが見てとれ、
図の中央ベース(下方)に大鳥居があり、
補陀洛渡海(ふだらくとかい)の一端を描いた船が浮かんでいます。
中央下方に描かれることは、
那智山の信仰の対象が観音浄土にあったことが推測でき、
ラインがコマ9の那智浜、大鳥居に沿い至ることは、
南方の補陀洛浄土の世界が、南都の時代にあったことも考えられます。
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草創
近江・小浜から二月堂を経て、この地に至ることは、決して偶然ではなく、
天平勝宝4年(742)に実忠が創始したとする修二会の十一面観音悔過のお水取りが
この地の知識を得ていた可能性があることが推測できるのです。

このことから、742年以前の那智山の世界を追ってみると、
青岸渡寺の草創は仁徳天皇(4、5世紀)の御代、那智浜に、
インドの修行僧七人が漂着しますが、六人は帰国し、一人だけが残留します。
その一人がインドの風習で裸だったので、裸形上人と呼ばれ、
この地に庵室をむすび、那智山に登り、ある時、滝壷より八寸の尊像を感得し、
尊像を安置したのが発祥と記されています。

仏教伝来以前、二百二十余年も遡る伝承話ですが、
裸形上人の話は補陀洛山寺や那智大社にも広がりを見ることから、
那智浜と那智山という紀伊半島、本州の南端の地、
黒潮の流れなどを想定すると、イメージが膨らまない話ではありません。

仏教伝来以前に、仏教、密教的なものが南方からすでに伝播していたことは十分考えられ、
それが観音信仰につながっていったとも推測できます。(参-1)

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光ケ峯と那智山経塚
大滝への参道口の西側、俗に枯池、金経門と呼ばれる辺りから、
那智山経塚が発見されました。
発見された経塚は、出土遺物の数や種類から
全国でも有数の仏教遺跡のひとつとされています。

光ケ峯が那智三峯の第一峯であることから、経塚とつながる
ものがあるのでは、とイメージし、
光ケ峯と経塚の関係を追ってみると、

コマ5の多武峯で
『紀』斉明天皇2年(656)の条、
田身嶺に冠らしむるに周れる垣を以てす。田身は山の名なり。此れをば大務と云う。
復、嶺の上の兩つの槻の樹の邊に、觀を起つ。
なづけて兩槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。
の記述から、以前亀石との関係をイメージしたことを記しました。

『紀』の注釈では「觀(たかどの)」を
道観、道教の寺院か、と記していますが、
道教という観念的な言葉に惑わされているような気持がし、
「観」の字源をみると、審らかに見る意を含んでいることが見え、
光明へとつながる意図も感じられます。
「槻」は硬木のケヤキの一種ですが、半円形の意も含んでいることから、
「目」のイメージも湧き、
亀石の半瞑りの目と重ねて見ることもできます(写-1の2)。

Mkameisi0414.jpg
(写-1)
国立博物館の資料に、
多武峯伝来とする十一面観音菩薩像があることがわかります。(写-1の1)
制作年代は7世紀半頃と推定され、
上記斉明天皇2年の条とも重なりを見ることができ、
顔面の彫りは弓形の長い眉を表し、半瞑りの伏目が特徴とすることから、
「槻」は弓の材料で、亀石と比べると表情の類似するものが感じられます。

また、
天宮を『紀』の注釈では、道観、道教の寺院か、と記していますが、
むしろ、天女の住むところ、水の女神のいるところと素直に解釈すると、
観音界のイメージが湧いてきます。

亀石が多武峯の嶺を描き彫っているというイメージと合わせ、
このよなイメージを元に形象的に考察すると、
亀石の底面は酒船石遺跡の丘上にある酒船石(写-1の4)とほぼ重なり合う
形を有しており(写-1の3)、
酒船石の上面に彫られた渠刻から得られた三角形(飛鳥の三角形)の一角を
光ケ峯に合わせ描くと、烏帽子山と結び、
尊勝院(そんしょういん・青岸渡寺の僧房)辺りの地点を示すことがわかります。

Mnachisan0417-1.jpg

この地点北上辺りが那智山経塚(なちさんきょうづか)であることからも、
那智山の原点はこの辺りあるようにも感じられます。

経塚からは多くの仏像・仏具、密教代壇具、経塚関係具などが
見つかっており、そのなかに十一面観音菩薩像(写-2の5)があります。
仏像は白鳳時代の作と推定されていますが、
埋められたのは、経塚の形成が平安時代後期からとすることより、
平城、飛鳥に遡る精査はあまり行われていないようです。
しかし、
辿ってきた終着の地点は観音浄土、補陀洛渡海の入口であり、
白鳳時代の十一面観音菩薩を見ることは、過去を暗示することでもあり、
多武峯を経るラインのイメージからも、
斉明朝には観音信仰があった可能性も推測できます。

那智山開祖がインドを知った異邦人(裸形上人)であったとすれば、
実忠にとって重なる思いも強かったかもしれません。

見つかった十一面観音菩薩像の特徴は衣上の装飾復連点文にあるとし、
この復連点文は法隆寺再建時に集められ安置された仏像(写-2の6)などにも
見えることが記されています。

復連点文をイメージすると、
水滴や雨露、飛沫が浮かんできますが、二列点文でもあり、
アヴェスター』に記される、源水から二河を東西に流出させたする
イメージが微かに浮かんできます。

kannonbosatu0314-1.jpg
(写-2)
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ペルシア文化渡来考』のなかに、
観音(漢数字)と水の神アナーヒター(数字)との類似点が記されています。
(一)像容が多く、女性として表象されていること。
(1)美しい姿勢や服飾は、目にも鮮やかに活写されている。
(二)多種の願いを叶えること。
(2)多様な人物が願をかけ、その人物の善悪に従って許・不許を行っている。
(三)瓶壷や楊柳を携えている。
(3)水との関係が深く、水となって峯から海にたぎり落ち、大地に送り、
民生の繁栄に功助し、祭枝を携えている。
(四)弥陀・観音・勢至として三尊の一をなしている。
(4)勢至に欠けるものがある。
と対比した上、
(4)の問題点に、『アヴェスター』「ガーサー」に登場する女神
スプンター・アールマティ(ローマ数字)を引用し、
(Ⅰ)どこからみても美しい。
(Ⅱ)いろんな願いを叶えてくれる。
水火刀杖などに対抗する力を持ち合わせている。
(Ⅲ)水と草を支配下に置き、庇護する。
(Ⅳ)不死たる利益者として牛・火・金属・大地・水・草木の神格を支配下におき、
(4)の三尊の一をなす女神でもある。
と記し、アナーヒターより似つかしい女神とていますが、
水との直接的なつながりからはアナーヒターの方がまさっていると結んでいます。

(Ⅳ)の示す六つの神格から、
牛玉宝印・扇立祭り・金経門・那智山・滝・那智原生林として
那智山のなかにイメージできることからも興味を抱きます。

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もう一つの十一面観音菩薩像
桜井市聖林寺に十一面観音菩薩像(写-2の7)があります。

もとは大神神社の神宮寺、大御輪寺(おおみわてら)に
移設され安置されていたとする観音像ですが、
技法、表現様式から南都の官営造仏所の流れをもつ代表作のひとつともされています。

白鳳以前の多武峯や那智山経塚の十一面観音菩薩像には
女神らしい優しさが表立っていますが、
この十一面観音菩薩像は男っぽい力強さが勝っています。

大御輪寺にあった頃は三尊の一を構成していたともされ、
中央に十一面観音菩薩、左右に不動明王、地蔵菩薩(後・法隆寺に安置)
であったとも推察されています。(参-2)

時を経て、唐などからの経典や新たな知識の伝来から、
(4)を補強した造りへと変化していったものかもしれません。

大御輪寺は現建屋下より、
7世紀初頭から中と8世紀前半の堀立柱跡が見つかっており、
『今昔物語』には「三輪寺」とも称され、
平安期には多武峯の影響下、鎌倉初期には興福寺の末寺、
鎌倉後期には改装され大御輪寺と改称されたようです。
十一面観音菩薩像は、
この改装時に移設安置されたのではないか、とも記されています。(参-2)

ラインが三輪山に沿うことは記しましたが、
この十一面観音菩薩像を知ることから、再度覗いてみると、

miwayama0417.jpg

鎌倉前期の慶円(三輪流神道の祖)の開基とされ、
当時は大御輪寺をしのいでいたともされる平等寺辺りを辿ることがわかりました。
そして、この寺の鎮守社春日社がラインの中に位置しています。
現存の平等寺は昭和に復興されたもので、
平安中期の作とする十一面観音菩薩像を本尊としているようです。(参-2)

十一面観音菩薩像は
多武峯の影響下にあったことから大御輪寺に移されたのかもしれませんが、
さらに、明治の排仏毀釈により、
大御輪寺から聖林寺に移り安置されています。
聖林寺は鎌倉時代に遍照院(平等寺)を移した寺と記され(参-2)、
当初は平等寺あたりにあったのかもと推測すると、
元に戻ったともイメージできます。


kannonbosatu0314.jpg
(図-2)

ライン上やラインに沿って十一面観音菩薩像が浮かんできましたが、
ラインを水の流れとイメージすると、
注がれた海原遠くに光明の世界がイメージされます。




《つづく》
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(図-1)『熊野高野 冥府の旅』栗田 勇 新潮社 1979
「熊野那智曼荼羅」熊野那智大社蔵より加筆
(写-1の1)(写-2の5) 東京国立博物館資料より加筆
(写-2の6)『法隆寺献納宝物』図録 東京国立博物館 1996より加筆
(参-1)『奈良県の地名』日本歴史地名大系30 平凡社 1981
『和歌山県の地名』日本歴史地名大系31 平凡社 1983
『熊野高野 冥府の旅』「那智の滝」「捨身・補陀洛渡海」栗田 勇 新潮社 1979
(写-2の7)(参-2)『神奈備大神三輪明神』東方出版 1997「大御輪寺の仏像」鈴木喜博 より加筆
(図-2写真)「二月堂十一面観音菩薩像 」
『奈良六大寺大観 東大寺3』岩波書店 1972より加筆
「多武峯伝来十一面観音菩薩像」東京国立博物館資料より加筆
「聖林寺十一面観音菩薩像」『神奈備大神三輪明神』東方出版 1997
「大御輪寺の仏像」より加筆
「那智山経塚十一面観音菩薩像」東京国立博物館資料より加筆
(地図)地理院GSI Mapsに加筆
『ペルシア文化渡来考』伊藤義教 筑摩書房 2001
『紀』「日本書紀」日本古典文学大系 岩波書店 1993

《注》
文中の「Ⓢライン」は6本のラインの総称として記してしまいましたが、
今回より「ライン」と記し、訂正します。



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