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Kのメモ Jun 29,2011 [店雑記・Kのメモ]


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(図1)五條の里のにぎわい

郷土の殿様

1608年
昔、郷土の大和五條に一万石のM殿様がやってきました。

M殿様は豪族の居城であった
吉野川沿いの曲淵の二見城を改築、改装し居住しました。


M殿様は以前から栄えていた二見村や五條村、須恵村の市(いち)の
さらなる繁栄と紀州街道の整備も兼ね吉野川沿いに新たな町筋を計画しました。

そして93軒の町屋を取立て、年貢諸役免除し新町村ができました。

その後、五條の町は
街道のクロス拠点(紀州、伊勢、河南、河内)として五條村、須恵村、新町村の三村共同の
伝馬所(1639)なども設置され発展していきました。


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(写1)昭和時代の須恵町


1616年
五條の町を統治していたM殿様は町の発展の評価を得て
肥前島原三万四千石に国替えとなり、肥前日野江城に転居しました。

肥前はM殿様入部(転入)前、切支丹大名と言われるA殿様がおられ、
幕府はあまりよく思っていませんでした。

1609年
A殿様は贈収賄事件により所領を没収され刑死します。

1614年
幕府は全国に禁教令をだします。

A殿様の後、実子が殿様となりますが今度は父とは逆に
偏った禁教弾圧、迫害をおこない日向に転封されました。

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(図2)

1618年
肥前島原に移ったM殿様は既存の城に居住せず、
延100万からの領民を徴発し、石高不相応の五層六階天守の島原城をつくりました。
五層六階天守の城は他に名古屋城、中津城、広島城などがあります。

『名城の日本地図(注1)』には地盤は火山灰地と溶岩流から形成されており、
築城は至難のわざであったと推測し記されています。

城の櫓の数49、巨砲180挺、防禦(ぼうぎょ)を強く意識したことがわかりますが
本丸と二の丸をつないでいる木橋を外すと本丸は孤立してしまうという
縄張り(設計)上、大きな欠陥城でもあったとも記されています。
天守も破風(はふ)のない庇だけで取り巻いた砦のイメージが際立ったものです。

『城(注2)』には「防禦の拠点」という機能は城という構造物と人間の戦力から成立していて
人的構成がなければ城の防禦力は発揮出来ない、と記されています。

大きな城やたくさんの砲具を持っても兵士がいなけりば成立ちません。

島原城の造営と重なり、江戸城の拡張工事が行われており、
M殿様は石高より多い十万石の賦役を申し出た、とあります。

工事後、M殿様は六万石に加増されます。

大きな城の人的構成を増やしたかったのかもしれません。


名人や名工という人の作品には、言葉以上の美しさを感じるものがひそんでいます。


M殿様が城づくりの名人と伝えられる、としますが

民を犠牲とした姑息な思案や行為からそのようなものを見つけ出すことはできません。
本当は浅知恵のセンスのない殿様だったのかもしれません。

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M殿様が備前島原に国替えした当初、厳しい禁教令にもかかわらず、
宣教師やキリシタン、民に寛容に接したといわれています。

この間の殿様の本心もイメージの世界でしか
とらえることが出来ず十分に知ることはできません


諸外国との密貿易、異教化した民からの年貢徴収策、さらなる野望、など
イメージはつきません。

もしかしたら、秀吉や家康の天下取りのあまい夢の延長として
貿易国の王様という野望があったのかもしれません。


1625年
M殿様が参勤交代で江戸に上がられた時、将軍家光に寛容な禁教統治など
問われたようです。

島原城の竣工が1626年頃とすると、
大きな城をつくった経緯なども問われたかもしれません。

M殿様はその後、態度が一遍したとされ、
寛容だった禁教統治はなくなり、言葉にできないような拷問で民を呵したとされています。

思い描いていた夢が知れたのか、焦りがあったのか
これらのことも、イメージの世界を脱することはできませんが、

単にイメージすれば、重い拷問を行っても絶えない異教を
アピールしたかったのかもしれません。

1630年
M殿様は江戸幕府にルソン国(フィリピン)との交易、キリシタンの廃絶を
込めた征服、占領策を提言し、それに先がけた先発調査をしたとあります。

しかし、その年の初冬、M殿様は旅立ちました。死因は不明です。

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もしM殿様のドラマを作ろうとイメージすると、どうなるでしょう。
人の上に立つことなく、慕われることも少なく、
美しいドラマや勇敢なドラマには描きづらいものがあります。

どこかにうつくしいものがみつからないか、と探しますが、
ありきたりの武勇古誌談しかなく、悪徳の美学さえ見えてきません。

郷土で称える新町村の開設にも大きな欠陥があったのですが下記に。


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M殿様の死後、息子Kが殿様となりますが、父以上に民に重い租税強要、拷問を繰り返し
凶作なども重なり、島原の統治はうしなわれていきます。

1637年~1638年
天草、島原で黒く覆いかぶさっていたものが大きな一揆として蜂起し原城に籠城します。
現在の五條の町の人口に匹敵する約37000人(一説)からの
キリシタンや領民が戦い殺される結果となったのです。
後に言われる「島原の乱」です。


その後
幕府はキリシタンによる一揆蜂起とし、さらに禁教令を強め、鎖国への道を進むのです。

K殿様は島原の統治が「島原の乱」の起因のひとつと指摘され、
幕府の命により斬首となり領地は没収されました。

けっして素敵な結末の話でありません。



2008年
郷土の五條市では、町の商業の礎をつくってくれた偉人として、
M殿様の400年を偲んで、大々的に殿様の記念祭が実行委員会のもと催しされたとのことです。

祈念碑の建立、記念誌の発刊(2009)、記念祭(M殿様踊り)、講演会などが行われたようです。

もともと、M殿様が島原に国替え後も、殿様を讃え、お祭や殿様踊りを
していたと五條市の広報に記し賛同を呼びかけています。


でも、ちょっと待って、

どうしてその行事が現在まで続いてこなかったのでしょう。


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私はM殿様、K殿様が覆いかぶせた島原の黒い影を考え
五條の町の先祖が続けなかったのではないか、とイメージしたいのです。

M殿様が五條にいた7年間も、M.K殿様が肥前にいた22年間の行動も
すべて幕府の命に従ったと見ても、私のなかでは暗の世界としか映らないのです。

世の中、常に潤う人と閏えない人の葛藤かもしれませんが
一滴の潤いをイメージすれば、M殿様を称えることはできないのです。


人物像の評価は箇々の視線により描くイメージが変わります。

でも、その時の遺品(もの)は視線の変化にも褪せることはありません。


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(写2)

島原の乱でキリシタンや領民が籠城した原城の発掘調査で
出土した遺物の写真を見ていたとき、


「うつくしい十字架だね」と夏恵子が覗き込みます。

火縄銃の鉛玉でつくったと推測されている十字架です。

島原の乱がキリシタンだけでなく、多くの民も籠城しましたが
ちいさなものの中に、なにか籠城した人々の願いをこめた美しさを感じるのです。



人々がうつくしいものを求め合うとき、そこに真実や愛がうまれるように思われます。

もし、
殿様がうつくしいものを感じ得たなら、ちがった世界が展開していたかもしれません。


司馬遼太郎さんが記した「がんまつ」「がんまち」(注3)が浮かんできます。

もし、郷土が島原であれば。

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五條の町の発展は五條村、新町村、須恵村から成ったことは前記しましたが、
元禄16年(1703)の大火で五條村の町並はほとんど焼失し、筋を隔てた新町筋は残りました。

1996年
市立博物館が開館しますが近世の展示は
現存する新町筋の調査の進展などにスポットを当てたこともあり、
五條の町の姿が十分に描かれたとは思えません。

2010年
五條新町地区が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されます。


殿様が計画し造営したとされる吉野川に沿った新町筋。

たえず吉野川の洪水で浸水する町並を見てきた私は町づくりからも大きな欠陥であったとイメージしています。

現存するものだけに目を奪われることなく、町をイメージすることが

新しい町づくりの原点かもしれません。

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(注1)『名城の日本地図』 西ヶ谷泰宏 日竎貞夫 文藝春秋 2005
(図1)『大和名所図会』六巻七冊 秋里籬里 著 春朝斎 竹原信繁 画 寛政三年 (1791) 成立
「五條里の賑わい」より加筆
(図2)『電子国土ポータル』より加筆
(注2)『城』 井上宗和 ものと人間の文化史9 法政大学出版 1973
(写1)『写真で見る日本・近畿編』 日本文化出版社1959より加筆
(写2)火縄銃の玉でつくられたであろうとする十字架
『原城発掘』 長崎県南有馬町 編集 石井進 服部英雄 新人物往来社 2000より加筆
(注3)
「がんまち」自分勝手。欲ふかく出しゃばること。我勝に物事をすること。
まがち〈目勝ち〉に撥音シが加わって、まんがちとなり、さらにマとガが転倒したもの、と
 『大阪ことば事典』 槇村史陽編 に記されています。「がんまつ」はそれが訛ったもの、強調されたものと推測。
司馬遼太郎さんはM殿様の郷里(大和)の方言にあるとして記しています。

(参考文献)
『毒矢』 「落日」 川村たかし 国土社 1983
『日本児童文学』2003.12月号「歴史小説と史実について、松倉重政の証言」 川村たかし 
『島原の乱』 神田千里 中央公論社 2005
『街道をゆく・島原半島、天草諸道』 司馬遼太郎 朝日新聞社 1987
『奈良県の地名』日本歴史地名大系 平凡社 1981
『五條の歴史と文化』 五條市立博物館 1996




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