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Kのメモ APR 12,2014 [店雑記・Kのメモ]



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夏恵子の珍道中記

石の箇所-6の1
 
 
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(図-1)


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珍石のあるところは
明日香村大字祝戸(いわいど)を経て稲淵、栢森(かやのもり)へ通じる路から
国営飛鳥歴史公園の祝戸地区へ入った途中にある。
公園整備により前記したような雑草が茂るなかに斜立するイメージはない。
 
『明日香村史』に記されている小字名㊀や、
飛鳥随想
』小字名㊁を調べると
宮や、堂跡名を見ることができ、「立石」の小字名に珍石が昔からあったことが確認することがでる。
 
『飛鳥古跡考』に
「坂田寺これならん。里人云、むかしの金剛寺(坂田尼寺の法号)は
村(坂田)の前、祝戸領立石の上なる道の東、、」と
記され
立石の上の道の東に坂田寺が位置していたことがわかり知りたくなる。

 記されていることに従い珍石のところから緩やかな坂道を登っていくと、
寺跡に解説の案内板があり
「飛鳥時代の主要伽藍であったが、当時の伽藍跡は見つかってなく不明」と記されていた。
発掘でみつかったのはどうも奈良時代の寺跡(坂田尼寺)であったようだ。
 
飛鳥随想
』でI氏は
㊁㊂の図を記しABCDの田圃の並びやCの田圃から伽藍石が見つかっていることから、
寺があったことを示唆し、
「、、、石地蔵が立ち、また「わらによ」があり、
其の道傍に「まら石」と称する立石の在する等より思うに、
ここは門(坂田尼寺の)址の名残とみられはすまいか」と記されている。

このようなことからも珍石が坂田尼寺の寺内にあったことがうかがわれ、
坂田寺の沿革を調べてみることにした。

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沿革といっても、『紀』には三つしか記されていない。
それも①では南淵の坂田寺、②では南淵の坂田尼寺、③では単に坂田の表記しかない。
「尼寺と二つあったのかしら?」などと惑わされる。
 
1973年から始められた遺跡発掘調査で寺跡の様子が明らかになり、
伽藍配置、回廊、金堂などの遺構、及び珍石がある回廊北面の状態もみえてきた。

 2003年の珍石より北に位置する発掘調査では、
瓦、墨書き土器などを出土し、珍石周辺から池や井戸、瓦や墨書き土器、木簡などが見つかり
周辺も寺域であったと推定された。

「寺内に珍石があったなら、農業祭祀や生殖信仰、、はない?」と思った。


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(図-1)国土地理院地図に加筆
㊀『明日香村史』明日香村 1974より加筆
㊁『飛鳥随想』 石田茂作 学生社 1974より加筆




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