Kのメモ APR 13,2014 [店雑記・Kのメモ]
夏恵子の珍道中記
石の箇所-6の2
珍石が寺内に位置することから、つい寺との関係に視線が向くが、
夏恵子はまず周囲に視線をそそぐことにした。
飛鳥時代は祝戸、坂田、稲淵の地を含め南淵(みなぶち)と称していたようだ。(参-1)
(図-1)
『紀』皇極元年(642年)に
「天皇、南淵の河上に幸まして、ひざまづきて四方を拝む。
天を仰ぎて祈りたまふ。即ち雷なりて大雨ふる。、、、」と
天皇自身が雨乞いの神事をおこなったことが記されている。
夏恵子は「河上」を「かわら」と解せなくもなく、南淵の川のほとりでおこなったと解釈した。(注-1)
『紀』に記されている
「南淵の坂田寺」「南淵の坂田尼寺」から珍石辺りも南渕であり、
この近辺でおこなわれたとも推測できる。
『お水取り(東大寺二月堂)』資料にはこの記事が「悔過(けか)」の初見(正史資料)と記されおり、
お水取りの悔過行法との関係を記している。
どうして「南淵の河上」で行ったのかは記されていないが、
このようなことから祝戸地区に珍石があるものの
「南渕の珍石」と意識すると、
薄らと影がみえてくる。
「淵」の字源を求めると、説文に「回れる水なり」とある。
「もしかしたら須弥山界の贍部州(インド亜大陸)にある無熱悩池から
注ぐモーさん(牛の口)をイメージしながら五体投地を珍石近くで行ったのでは」と
イメージがわき、
「南淵は源流に位置するところかもしれない」と思った。
伝承話の一説には
この
五体投地の
箇所を上流にある
飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社(あすかかわかみにいますうすたきひめのみこと)下の
稲淵の淵(八幡ダブ・図-1、白丸あたり
)だとも言われているが確証はない。
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(参-1)
(注-1)『紀』斉明5年(659年)の「
甘橿丘の東の川上(かわら)に、、」上は
「ほとり」の意より
(図-1)
㊂『お水取り』「二月堂本尊光背裏面拓本」奈良国立博物館 2001より加筆
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