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Kのメモ APR 21,2014 [店雑記・Kのメモ]



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夏恵子の珍道中記

カナート-8-2

Bqanat2.jpg 

井戸跡周辺をみると、
井戸枠の大きさは約1.2m角、九世紀以降につくられたものらしいが
井戸枠の下部五段は残っており、「丈部」と線刻されていたようである。
井戸は屋形とされ四隅に柱跡があり、屋根があったのではとも推察さている。
 井戸に近接し池があった。
池の大きさは東西6m以上、南北10m、深さ1mの方形池と記されており、
⑴井戸中心から北東約21m以上、珍石から北に約21mほどと
ほぼ同一距離に位置していることがわかる。
 
『古代庭園の思想』において池の分類が行われており、
この池の護岸が傾斜㋕していることから雷丘東方遺跡の池と同類とし、
池跡が小墾田宮の可能性を示すことから
推古二十年(612年)の南庭に路子工(芝耆麻呂)が呉橋と須弥山をつくったことに合わせ、
仏思想に基づくハス池であったのではと推測し記されている。
(しかし、小墾田宮推定地で呉橋と須弥山がつくられたかは定かではない。)
 
井戸跡周辺の特徴として復元図や井戸周りの写真からは井戸に接続し、
伽藍方位に一致する⑶数条の石組溝㋔からⒶⒷⒸⒹⒺⒻを見ることができる。
水と複状の溝にイメージをふくらませると北方に位置するところに
近年池の堤が発掘され磐余池跡地と推定する池跡がある。

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この池は丘陵の間に堤を築き五状の谷筋に沿い水溜とした灌漑用の溜池だったと推測されている。
 磐余池は天皇の宮地の近くにあったとされ
用明天皇が住まわれた磐余池辺双槻宮もこの池の辺りに位置していたのでは、とされているものである。

 池の推定図❶を見ると、
8-1に記したカナートの図に類するように
山麓(丘陵)の導水を得て引き入ることは地下、地上に関係なくカナートの原形をなすものと考える。
 
また池辺双槻宮(いけへのなみつきみや)を
『上宮聖徳法王帝説』には「瀆邊宮(いけのへのみや)」と記しており、
注釈では「瀆(みぞ)」は「池」と同訓であったとし、
説文に「瀆」は「溝也」と記していることから察するに
磐余池は溝のような筋を呈した池であったとイメージされ、
みつかった堤部分の遺構は磐余池の一部であり、瀆邊双槻宮が近辺にあったと思える。
 
前記したようにこの池が坂田尼寺跡の北方に位置することは
『紀』推古元年(593年)に厩戸皇子が住んだとされる上宮(かみつみや)を
「宮(池辺双槻宮)の南の上殿に居らしめたまう」より

⑴『上宮聖徳法王帝説』に「上宮 厩戸豊聡耳命、嶋の大臣と共に天の下の政を輔けて」と記されていること、

⑵坂田尼寺跡の北下には蘇我馬子の嶋邸とされる島圧遺跡があり、
厩戸皇子の親方が欽明と蘇我の出身❸であったこと、

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⑶推古天皇の豊浦宮から池辺双槻宮、坂田尼寺跡が等距離❷であること、

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⑷どちらにも方形池があること、などから
坂田尼寺跡の小字名の「フルミヤ」「ハナゾ(注-1))」との関連が浮かび、
上宮が存在した可能性は否定できない。

また、法隆寺では古くから厩戸皇子の上宮を坂田寺の地としていたと
『法隆寺の謎を解く』に記している。
 
『法隆寺東院縁起(11世紀?)』に、
「、、元は南の上殿に居しむ。上宮の名は此に依て得る。
即ち宮(斑鳩宮)を以て佛の工鞍部鳥に賜う。
鳥(鞍作鳥)宮を以て改めて寺を造る。己の(ママ)今の坂田寺也」と記されており、
『聖徳太子伝暦』『太子伝古今目録抄』も、その説を引用したらしい。(参-1)

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夏恵子は「厩戸皇子はやっぱり黒駒の地に住んでいたのかしら」と思った。

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法隆寺の行事にも「お水取り」がある。
二月堂のお水取りとちがって夢殿正面壇上にある礼盤(らいばん)を外に出し、
日にあてると自然と水気が出てきて、それを「観音の水」と称し、
水分の量にて雨量を占い、豊作を願うことが記されている。(参-2) 

 坂田寺を継承したとされる尼信勝は
東大寺大仏東脇侍の観音菩薩像を造立したことが
『東大寺要録』に記されおり、
二月堂お水取り過去帳読誦(ぞくしょう)においても十二番目に名を残している。


二月堂お水取りを創案したとする実忠和尚を異邦人と解し、
『東大寺要録』に記されている実忠築造の頭塔(ストーパ・奈良市高畑町遺跡)などから
インドの事情に明るかったペルシア系の渡来人であったと想わせると記している。(参-3)


もしかすると遺品としてみつかった小さな双耳瓶は「観音の水」用だったかもしれない。




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㋕『古代庭園の思想』金子裕之 編 角川書店 2002より加筆
❸『蘇我三代』飛鳥資料館 1995より参考加筆
(参-1)『法隆寺の謎を解く』高田良信 小学館 1990
(参-2)『法隆寺の謎』高田良信 小学館 1998
(参-3)『ペルシア文化渡来考』 伊藤義教 岩波書店 1980

(注-1)坂田尼寺跡の小字名に「ハナゾ」がある。「花園」と解されるものと思えるが、
法隆寺境内に若草伽藍と呼ばれている場所があり斑鳩寺、西院伽藍の南に位置し、
平安時代は「花園」と呼ばれていたらしい。(参-2)
坂田も同じく伽藍の南に位置する。




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