Kのメモ MAR 27,2015 [店雑記・Kのメモ]
南都・線と三角形-6
コマ5は多武峯、御破裂山、談山神社を辿ります。
どうしてこの地点を辿るのかとイメージを膨らませますが、
新しいイメージが湧いてきません。
ただⓈラインが鮮明に示しているようにも感じるのです。
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斉明天皇2年(656)
田身嶺に冠らしむるに周れる垣を以てす。
田身は山の名なり。此れをば大務と云う。
復、嶺の上の兩つの槻の樹の邊に、觀を起つ。
なづけて兩槻宮とす。
亦は天宮と曰ふ。
この田身嶺が多武峯とされ、
その峯上に宮(道教の寺院?)が造られたとされていますが、
遺構は見つかっていません。
2006年に『Kの謎 飛鳥の石像物亀石』を
奈良県立万葉文化館で発表しましたが、
亀石に上記の山景が彫られているとし、
宮は峯上になく、下方に位置すると推測したことがあります。
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『三代実録』に
贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足、多武峯墓、大和国十市郡に在りと
記されており、
多武峯の談山神社が藤原鎌足の廟所として祀っています。
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陵墓などにあたることなく辿ってきたⓈラインですが、
この地点のみ、御破裂山上の藤原鎌足の墓に行き当ります。
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やはり『延喜式』諸陵寮「多武岑墓」に記された
多武峯墓 贈大政大臣正一位淡海公藤原朝臣
在大和國十市郡兆域東西十二町南北十二町無守戸
に落ち着くかもしれません。
『延喜式』に記された不比等墓説、
及び、後世の書『多武峯略記』『多武峯縁起』に記されている
説話の鎌足墓説の信憑性から、
確定しないまま現在に至っています。
しかし、鎌足の墓と推定される阿武山古墳が発掘され、
遺品や遺骨の検証から、
鎌足の多武峯墓説の信憑性が薄らいでいるのは確かです。
「阿武山古墳」については、
2013年12月に『Light of December-飛鳥の光』で
線上にイメージを追ってブログに記しました。
阿武山、法隆寺、飛鳥小原(生誕の地)、吉野宮滝に至るラインからも
「阿武山古墳」が鎌足の墓であるイメージが膨らみます。
参考下さい。
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どうしてⓈラインが多武峯に至るのかは
下記の系図が示すとおり、
不比等への想いが聖武天皇、光明皇后とも大きなものだったと推測します。
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修二会の行法中、三月五日と十二日に過去帳が読誦されます。
原本は34mを超える長大な巻物で、
創建より元禄7年(1694)までの東大寺有縁の人々の名が
列記されており、
三行目に藤原不比等の名が記されています。
(写-1)
推測の域を出ませんが、
不比等の墓がⓈラインのグレーゾーンにあればとイメージしています。
《つづく》
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(コマ5)地理院GSI Mzpsより加筆
(写-1)『お水取り』奈良国立博物館 2001より加筆
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